第五章「真実は苦いぞな(三)」
(三)
「眠れませんか?」
宇賀田神社参道の石段に座って、京都の夜景を見ていた美柑に神楽が声をかけた。
「うん。あまりに楽しくて、寝るんが勿体無い気がするんじゃ」
「美柑ちゃんは本当に桔平ちゃんの事が、好きなんですね」
神楽はそう言いながら美柑の横に腰掛けた。
「うん好きぞな。大好きじゃ」
美柑は素直に感情をぶつけた。
「でも、神楽ちゃんがおるけん……」
「私のことは、気にすることはないですよ」
神楽は、美柑の肩をそっと抱いた。
傍から見れば、それはまるで、妹を慰める姉のように見えたかもしれない。
「神楽ちゃんは、桔平兄ぃが他の人と一緒になっても平気なんぞな?」
美柑は、率直に訊いた。
「ん?どうでしょう。その時になって見ないとわかりません」
神楽が遠い目をして静かにに言う。
「私は、ただ失いたくないから、前に進めないだけかも」
そういう恋愛もあるのかと思い美柑は泣きたくなった。
『……はい。今も愛しています』
喫煙所で黒田啓輔が言った言葉が、胸の奥に蘇る。
「どうしたの?」
「喫煙所で黒田さんがそう言うたんじゃ。凪沙さんのことを……今も愛しとるって」
そこまで言ったとき、涙がこぼれた。
「そのとき彼は、何て言ったの?」
「桔平兄ぃは……」
美柑は、涙を拭いながら言った。
「誰かを本気で選ぶなら、傷つける相手にも筋を通さなあかん。そこから逃げたら、ただの綺麗ごとじゃって」
神楽は、何も言わなかった。
ただ、京都の夜景を見つめたまま、少しだけ美柑の肩を抱く手に力を込めた。
「なんじゃ、そこにおったんか」
と、香までもが起き出してきた。
「誰もおらんけぇ、怖うなって出てきたんよ」
「もう遅いので、桔平ちゃんのところへ行って飲み直しましょう」
神楽は急いで立ち上がると、一旦家に戻り、買い込んだビールや酎ハイの袋とおつまみの袋を持ってきた。
「うちが持つぞな」
「うちも持つけぇ」
と美柑と香が言い合って、三人仲良く袋を持って 、本殿裏の桔平の部屋へ向かった。
「何しとんねん、お前ら」
キャッキャッと騒ぐ声に、桔平が何事かと起きてきた。
「いえ、私の家では、母屋の方たちにご迷惑になりますので」
にこやかに神楽が言う。
「いやあかんあかん。ええか、ここはもう一回よぉく考えよ。なっ」
「何がですか?」
「ここで呑んだら、そら母屋の魑魅魍魎たちにはええやろ」
「はい」
神楽が普段誰にも見せない、きょとんとした顔で桔平を見つめる。
「そやけどな、お前ら俺の睡眠を邪魔してることに気づこうや」
「そうじゃ。桔平兄ぃも呑むぞなぁ」
「それはそうじゃな。ほら、遠慮せんで座りんさい」
と、香が桔平の手を引っ張って座らせる。
「ほらほら、桔平さんも遠慮せんで飲みんさい」
香はそう言いながら缶ビールを開け、桔平にぐいっと差し出した。
桔平はやけくそ気味に受け取ると、ビールをごくごくと飲み干した。
そのたびに上下する喉仏を見て、美柑はうっとりした顔になる。
《桔平兄ぃ……男前ぞなもし》
やがて酔いが回り、美柑の意識もふわふわとほどけていった。
二時間後……午前三時半。ようやく寝静まった女たちの顔を見ながら桔平は、
「よし。勝ったで!」
と、心の中でガッツポーズをしながら、最後のビールを飲み干した。
そして「俺も寝よぉ」と、うつらうつらと気持ちよくなって、深い眠りに就くその時だった。
『ラジオ体操第一~っよぉ~い!』
突然、境内に響き渡る音声に、桔平は現実へ引き戻された。
「……嘘やろ」
それは、この神社の実質的支配者である宇賀田初が、録音音源で日課のラジオ体操を始めた合図だった。
「ん~っ。何の音ぞな」
美柑が寝ぼけ眼で呟き、次の瞬間、桔平の腕にしがみついた。
「おい、美柑。離せっ。世間体言うもんがあるやろ」
「桔平兄ぃ……あったかいぞな……」
「はあ、地獄や……」
抗議する桔平の声は、境内に流れるラジオ体操の掛け声にかき消された。
「んあーっ。気持ちのいい朝ぞな!」
午前七時。美柑が元気な声で起き上がった。
「おはようございます。美柑ちゃんよく眠れましたか?」
神楽は、朝食の支度をしていた。
「はいぞな」
「美柑ちゃんは元気じゃなあ」
香は、まだ酒が残っているような顔で言った。
元気な女たちを尻目に、桔平の目には隈が出来ていた。
「桔平兄ぃ、どがいしたんぞな?」
と、美柑が心配になって声をかけた。
「ちゃんと寝やんと駄目ぞなもし」
「ほんまじゃ。刑事としての基本じゃけぇ」
香も、もっともらしい顔で桔平に詰め寄った。
「……誰のせいや思とんねん」
桔平が低い声で呟く。
「寝不足は自己管理の問題ぞな」
「そうじゃそうじゃ。人のせいにしたらおえん」
「お前らの方がおかしいやろ。ようあの状況で寝れたな」
桔平が、深いため息をついた。
「どういうことぞな」
美柑が首を傾げる。
思い出したくもないという顔を桔平はしたが、やがてぽつりぽつりと話し出した。
桔平の話によると、午前三時半、まず初が録音音源でラジオ体操を始めた。
ようやく終わったと思い、寝直そうとしたところで、今度は境内にカーンという拍子木の音が響いた。
初が朝の神事を始めたらしい。
それが終わり、ようやく静寂が戻ったと思った頃、次は姉の明菜が庭で空手の朝練を始めた。
「はあっ」という突きの気合い。「うりゃぁっ」という蹴りの音。砂利を踏む足音。
そして、ようやく本当の静けさが訪れたと思った、その時だった。
隣の寺から、ゴーン、と朝の鐘が鳴り響いたという。
「……この家の魑魅魍魎ども。やばいやろ」
桔平は、力なく呟いた。
「桔平兄ぃ……それは寝不足になるぞなもし」
美柑が神妙に頷く。
「そやろ。美柑は優しいなぁ。あいつらに染まらんといてな」
「でも、朝ご飯は食べた方がええぞな」
「そこやないねん」
桔平は、抵抗することを諦めた。
朝食を終えた四人は、今日の行動を相談した。
黒田啓輔からの連絡を待つ必要はある。だが、どのみち洋子が帰宅するのは夜の八時以降になる。ならば、それまでの時間をどう使うかが問題だった。
「せっかく美柑ちゃんと香さんが京都へ来ているのですから、待機を兼ねて少し市内を回りましょう」
神楽が、涼しい顔で提案した。
「グルメぞな。グルメ」
美柑は元気よく手を挙げた。
「京都いうたら寺社巡りやろ」
「神社やお寺なら松山にもあるけん」
寺社巡りを主張する桔平に、美柑はグルメがいいと譲らなかった。
「うちは、美術館やら服屋を見て回りてぇな」
香も、少し楽しそうに言う。
「では、岡山のように二手に分かれて行動しましょう」
神楽の一言で、あっさり方針は決まった。
桔平と美柑は京都グルメへ。
神楽と香は、美術館や四条周辺の店を回ることになった。
少し休息したあと、四人は本殿の初に挨拶に行った。昨日は帰宅が遅かったので美柑と香が遠慮したのだ。
宇賀田神社は、ただの神社ではなかった。古い神仏習合の名残を色濃く残しており、本殿の奥には、毘沙門天、吉祥天、五童子を祀る奥殿がある。
そこは普段、一般の参拝者が足を踏み入れることのない場所だった。美柑と香は、初の許しを得て、特別にその奥殿へ案内された。
奥殿に足を踏み入れた瞬間、香は思わず息を呑んだ。
外から見た印象とは、まるで違う。
内陣は金色の装飾に彩られ、古い神社というより、どこか密教寺院の奥の間を思わせる荘厳さがあった。
中央には、甲冑をまとった毘沙門天の立像が祀られている。左には吉祥天像。そして右には、五童子の像が並んでいた。
最勝童子、独健童子、那吒童子、常見童子、善膩師童子。
小さな像でありながら、その表情にはどれも不思議な威厳があった。
「……でぇれぇ立派じゃな」
香が、圧倒されたように呟いた。
ふと見上げると、天井には平安期に描かれたという金竜がいた。
金の鱗を光らせ、雲間からこちらを睨むその姿は、今にも天井を破って舞い降りてきそうだった。
神秘的な体験をした美柑と香は、初へ礼を言うため、本殿前の畳間へ向かった。
中央に座す初は、静かな笑みを湛えながら――眠っていた。
「……婆様、寝とるぞな」
美柑が小声で呟いた。
「神様みてぇな顔して寝とるなあ」
香も、思わず声を潜める。
《桔平兄ぃの目を開けて寝る秘術は、婆様譲りだったんじゃ》
と、美柑は納得した。
その後、四人は予定どおり二手に分かれた。




