第五章「真実は苦いぞな(二)」
(二)
《く……臭いぞなぁ》
勢いだけで付いてきた愚かさを、美柑は悔やんだ。
室内の喫煙所には煙がこもっている。
美柑は、息を止めて真っ赤なで立ち尽くしていた。
「お前な、煙草も吸わんのに、何をついてきとんねん」
と、桔平は文句を言いながら、ポケットから新しいマスクを取り出し、美柑に渡した。
「ほら。これ着けとけ」
《桔平兄ぃのマスク……》
美柑は、受け取ったマスクを両手で大事に持った。
《ああ……なんか守られとる気がするぞなもし》
桔平の何気ない配慮に、美柑は頬を染めた。
「仲がいいですね。お二人は恋人同士ですか?」
「はい……」
と美柑が言うのと、
「いえ、違います」
という桔平の声が重なった。
「なるほど。こんなに可愛い娘さんは中々見つかりませんよ」
美柑の耳に「こんなに可愛い娘さん――」がやまびこのように響いた。
当然、黒田に対する美柑の評価は爆上がりした。
《この人は悪い人やないけん》
「いえ、ただの親戚です」
桔平の冷たい否定に、美柑はふくれた。
「黒田さんは凪沙さんのこと、どない思ってはったんですか?」
この桔平の問いに、黒田は遠くを見る目になった。
「私は凪沙と一緒になるつもりでした」
「実は、私は婿養子でしてね。義父に勧められるまま、洋子と結婚しました。洋子には、本当に申し訳ないことをしたと思っています」
黒田は、煙草の先を灰皿に押しつけるでもなく、ただ見つめていた。
「山口から戻ったら、正式に別れ話をするつもりでした。黒田の家を出ることも、京都にいられなくなることも、覚悟していました」
「凪沙さんと、生きるためにですか」
桔平が訊いた。
黒田は、かすかに頷いた。
「ええ。まだ若かったですからね。故郷の北九州へ戻って、自分の事務所を立ち上げてもいい。そんなことまで考えていました」
何かを思い出したのか、黒田が声を詰まらせる。
「きらら博のあと、凪沙と北九州へ行きました。私の親の墓にも、一緒に手を合わせてくれました」
「では、今も凪沙さんのことを」
と桔平が訊くと、黒田は少し間をおいて、
「……はい。今も愛しています」
と、きっぱりと言った。
美柑は、胸が締めつけられるような気がした。
黒田は、本気だった。
凪沙と一緒に生きるために、黒田の家を出ることも、京都を離れることも覚悟していた。
それなのに、凪沙は気づけなかったのだ。
自分を本気で思ってくれていた人が、すぐそばにいたことに。
帰りの船で、凪沙が何を思い、何を信じられなくなったのか。
美柑には、まだ分からなかった。
「だとしたら、凪沙さんと、そうなる前に決着をつけた方が良かったんじゃないかと他人は言うでしょうね」
桔平が、意味ありげなことを言った。
「確かに、みな同じ事を言うでしょう。宇賀田さんは、私と凪沙の出会いを訊いてきませんがどうしてですか?」
「確かに、捜査上は必要かも知れませんが、俺はそこに興味はありません。どんな形でも真剣に向き合える相手に出会えれば、それでいいんじゃないかと思っています」
「なるほど」
「ただ、それには責任が付いて回ります。誰かを本気で選ぶなら、傷つける相手にも筋を通さなあかん。そこから逃げたら、ただの綺麗ごとです」
《そうぞな。さすがは桔平兄ぃじゃ》
美柑の中での桔平大好きゾーンがさらに広がった。
喫煙室から戻ってきた黒田は、神楽と香に頭を下げて詫びた。
「すみません、お待たせしました。続きをどうぞ」
「いえ、お気になさらないでください」
と神楽は、微笑みながら返した。
「奥様のことでお伺いしたいことがあります」
「妻の洋子ですか?」
突然、妻の名前が出てきて、黒田は驚いた表情になる。
「はい。二十五年前のことなので、覚えておられる範囲で結構です」
「どんなことでしょうか」
「二十五年前、きらら博へあなたは凪沙さんと行っておられますが、その会場で、奥様を見かけられませんでしたか?」
神楽が、静かに問いかけた。
「……」
黒田が難しい顔をして考え込んだ。
「いえ、見ていませんが、何かありましたか?」
そのとき、黒田の視線が、ほんの一瞬だけ神楽から外れた
美柑は、それを見逃さなかった。
《今、目ぇ逸らしたぞな》
「現時点では、あくまで確認です」
神楽は、表情を変えずに答えた。
「ですが、明日にでも一度、奥様に任意でお話を伺いたいと思っています。ご協力いただけますか」
「それは、もちろん協力させていただきます。ただ、妻は最近、習い事で忙しくしておりまして……明日ですと、帰宅は夜の八時頃になると思います。それでも大丈夫でしょうか」
「はい。こちらが合わせます」
黒田の顔に、明らかに動揺が見られる。
「分かりました。妻が帰り次第、話してみますその上で明日私の方から戴いたお名刺の番号に、ご連絡をさせて戴きます。それでよろしいですか?」
「はい、それでお願いします」
神楽は、表情を変えずに頷いた。
「ではそろそろ、次の約束がありますので、このあたりでよろしいでしょうか」
黒田は腕時計に目を落とし、静かに立ち上がった。
「お忙しいところ、お時間をいただき、ありがとうございました」
神楽が礼を言うと、美柑たちもそれに続いて立ち上がった。
黒田に見送られ、四人は会議室を後にした。
「腹へったな」
と、桔平が言う。
「減ったぞな」
美柑が、相づちを打つ。
「お二人は、いつもそれですね」
神楽が苦い顔をした。
黒田啓輔の事務所を出て、タクシーを拾おうと、烏丸通りに出たところで、突然桔平が言い出した。
「肉がええな」
と、桔平が言う。
「ええぞなもし」
美柑が、賛成した。
「ほんま、二人とも食べることばぁじゃな」
香も笑い出した。
というわけで、四人は川端四条の交差点近く、南座からほど近い老舗の焼き肉店へ向かうことになった。
開店前から並んでいたおかげで、四人は比較的早く店内へ案内された。
一九六五年創業の老舗焼肉店だけあって、店内には清潔感があり、どこか品のある豪華さが漂っている。
店員に案内された四人は席に着き、ひと通り注文を終えた。
神楽が、テーブルの上に置かれた銀色の容器を手に取る。ステンレス製の小さなやかんのようなそれを傾け、各人の小皿へ中身を注いだ。
とくとく、と音を立てて流れ出たのは、焼肉のタレとは思えないほど透き通った、薄い琥珀色の液体だった。
「うわあ……なんぞな、これは」
この店の名物である洗いダレを見た美柑の第一声だった。
「岡山じゃ、こがぁな透き通ったタレ、見たことねぇわ」
香も小皿を覗き込み、目を丸くしている。
「これに焼いた肉をくぐらせて食べるんです」
神楽が、静かに説明した。
「肉を……洗うんぞな?」
「焼肉を洗うて、ええんですか」
美柑と香が、そろって首を傾げた。
美柑はほどよく焼けた肉を、恐る恐る口へ運んだ。
次の瞬間、目を見開く。
《なんぞな、これ……》
濃いタレの味ではない。脂っこさがすっと消えて、肉の甘みだけが舌に残る。焼肉なのに、後味が軽い。
「うまいぞなもし!」
「ほんまじゃ。でぇれぇ上品な焼肉じゃなあ」
香も感心したように、もう一枚肉を洗いダレへくぐらせた。
「岡山と愛媛では、えらい世話になったんや。遠慮せんと、腹一杯食べてや」
と、桔平が美柑と香に言った。
「ほんとぞなもし?」
美柑の目が輝く。
「もちろんや。今日は俺が――」
俺が払うと言いかけた桔平の目が光った。
「……こら、美柑」
「なんぞな」
美柑の箸が、網の上でじっくり焼かれていた一枚の肉へ伸びていた。
「その肉は、俺が大事に育てたやつや。手ぇ出すなや!」
「桔平兄ぃは昨日うちの海老をとったぞな」
「過去の話はええねん。いま、このハラミの所有権を言うとるんや」
「過去を掘り起こすんがうちの仕事じゃ」
といって、遠慮なしにタレにくぐらせ、口に入れた。
「……ふふっ。旨いぞなもし」
幸せそうな顔の美柑をみて桔平は、フッと笑いこう言った。
「太るで」
美柑がプーとふくれた。
「……ほんま、仲ええなあ」
香が呆れたように笑うと、神楽は黙って自分の肉を洗いダレにくぐらせていた。




