第三章「死んだ女が、海から呼びよる(七)」
七)
青海島へ入った美柑達の捜査車両は、静ヶ浦側の駐車場に停まった。
本部から連絡を受けてから、ここまで二時間近く経っていたが、現場はまだ終わっていなかった。
すでに長門署の車両が数台入り、海岸へ下りる道の手前には規制線が張られている。
晋子は車を降りるなり、現場責任者らしい刑事のもとへ向かった。
「高杉です。状況、聞かせてもらえるかね」
美柑と香も、警察手帳を手にその後へ続いた。
「遺体はもう引き上げちょるんか」
「はい。もう救急車で搬送しちょります」
「所持品はどこに残っちょったん」
「椋梨慎吾が釣りをしちょったと見られる、大平場付近の磯です。クーラーボックス、釣り竿、餌箱が、そのまま残っちょりました。すでに別の捜査員が、現場確認に向かっちょります」
「釣り場と発見場所、距離はどれくらいあるんかね」
「直線で見りゃあ、そう離れちょりません。ただ、海岸沿いに歩いて行ける場所じゃありません。潮と風の向き次第では、遺体がこっちへ流されても不自然じゃない、いう見立てです」
遺体はすでに引き上げられていたが、身元確認と現場状況の確認は続いていた。
香は岡山県警なので、少し引いた位置で状況を整理した。
「遺体発見場所と釣り場は別じゃな。流された経路は、潮と風を確認せんとおえん」
美柑は目の前に広がる日本海を見ながら思った。
《事故ぞな。事件性はない。分かっとる》
ここに向かう間も、美柑はずっと、それが凪沙の意思のような気がしてならなかった。
《そういえば、長門屋の大浴場に狐の絵が描いてあったぞな》
湯けむりの向こうで、こちらを見ていた狐。
あの時はただの意匠だと思った。
けれど今は、その目までが、何かを知っていたように思えてしまう。
美柑は嫌な考えを振り払うように頭をブルブルと振った。
その様子を見ていた香が、ふいに口を開く。
「美柑ちゃん。人の魂いうんは、死んだらどこへ行く思う?」
「もう。香さんって、けっこう意地悪ぞなもし」
美柑は、せっかく振り払った不安を引き戻されて、少し拗ねた。
椋梨慎吾が最後に釣りをしていた場所は、青海島北岸、大平場付近の磯と特定された。
磯にはクーラーボックス、釣り竿、折りたたみ椅子、餌箱などが残されたままだった。
その後、近くを通りかかった漁船から「人のようなものが浮いている」と通報があり、長門署と海上保安部の職員が現場へ向かった。
発見された遺体は、磯に残されていた所持品や、本人の着衣、免許証などから、行方が分からなくなっていた椋梨慎吾と確認された。
釣り餌屋のレシートの日付は四日前の六月四日になっていた。
四日前の当時、周辺海域の波の高さは一メートル前後だったという。
数字だけを見れば、荒天とまでは言えない。
だが、岩場では話が違う。
沖から入ったうねりが磯にぶつかれば、足元を洗う波は一気に強くなる。
警察は、椋梨慎吾が釣りの最中、濡れた岩場で足を滑らせ、波にさらわれた可能性が高いとみていた。
事件性を示す痕跡は、今のところ見つかっていない。
「うちらは、釣り餌屋に聞き込みへ向かうっちゃ」
現場へ着いてからバタバタと走り回っていた晋子が帰ってきて、美柑と香に言った。
「釣り餌屋ぞな?」
「鞄の中に入っちょった財布から、四日前にその店で餌を買うたレシートが見つかったんよ」
「なるほど。ほんなら急がんとおえんな」
と、香が頷く。
「あ、それと美柑ちゃん」
晋子は、透明な証拠品袋に入った一枚の古びた写真を、美柑に見せた。
「財布の中に、これも入っちょった」
美柑は、袋越しに写真を見た。
そこに写っていたのは、仲居姿の凪沙だった。
長門屋時代の写真だろう。
凪沙は、白い割烹着のような仲居姿で、少し照れたように笑っている。
家宅捜索で見つかった写真と同じ顔だった。
結婚後の、笑わなくなった凪沙ではない。
まだ、笑えていた頃の凪沙だった。
《椋梨慎吾は……この凪沙さんを、最後まで持っとったんぞな》
長門屋の女将が言っていた「愛らしい」と言う凪沙の写真を見ていた。
「ほら、美柑ちゃん。急ぐっちゃ」
晋子に声をかけられ、美柑はようやく顔を上げた。
釣り餌屋「釣り升」は、現場から車で五分ほどの場所にあった。
夕方ということもあり、店はすでに閉まっていた。
だが隣の自宅にいた店主に事情を話すと、四日前の防犯カメラ映像を確認させてもらえることになった。
小さな事務所のモニターに、六月四日の映像が映し出される。
画面の中で、椋梨慎吾は仕掛け売り場の前に立っていた。
帽子をかぶり、少し背中を丸めて、釣り針の袋を選んでいる。
その隣に、女がいた。
「女性と一緒ぞな」
美柑は、思わず画面を指差した。
だが、晋子と香は同時に眉をひそめた。
「……美柑ちゃん?」
「どこにおるん?」
香の声が、少し硬くなる。
「ここぞな。椋梨慎吾の隣に……」
美柑はもう一度、画面を見る。
女は確かにそこにいた。
白っぽい服を着て、椋梨慎吾のすぐ横に立っている。
顔ははっきりとは見えていない。
晋子が無言で映像を巻き戻した。
もう一度、同じ場面が映る。
椋梨慎吾が、仕掛け売り場の前に立っている。
けれど、晋子と香の目には、そこにいるのは椋梨慎吾ひとりだけだった。
「ちょっと、美柑ちゃん。さっきはごめんて」
香が、困ったように言った。
「驚かせるつもりはなかったんじゃ。魂がどうとか、変な話したけぇ……」
美柑は、意味が分からず香を見た。
「なんで謝るぞな?」
香の顔から、笑みが消える。
晋子も、モニターから目を離さなかった。
画面の中で、椋梨慎吾はただ一人、釣り道具を選んでいる。
美柑にだけ、女が見えていた。
「美柑ちゃん。映像には、椋梨慎吾しか映っちょらん」
香も最初は、美柑が怖がっているだけだと思う。
でも、美柑の顔色が本当に悪い。
「……お嬢さん、見えたんかね」
店主が、低い声で言った。
三人が振り向く。
「ここらの海で死んだ人間は、たまに、連れて行く相手を探す言いますけぇ」
と、ぽつりと言った。
三人は、その店主の話し方に恐怖を覚えた。
釣り餌屋をでた三人は、その後長門署へよって、詳細な資料を確認した。
長門屋へ帰ってきたのは、午後六時になっていた。
三人は、旅館に着くや否や、大浴場で身を清めた。ただ、美柑だけは、壁に描かれた「白狐」に背を向けていた。
「美柑ちゃん。気になるんなら、どっかでお祓いしてもろうてもええんじゃない?」
一息ついて、香がタオルを頭に乗せて美柑に言う。
「うちは刑事ぞな。そがいなことで怖がっとるわけやないぞな」
美柑は反発するが、手は震えている。
《……これ、ほんまに宇賀田神社へ行って、初婆様にお祓い頼まないかんやつぞな?》
と、真剣に悩んだ。
「ところで、二人は明日帰るんじゃろ?」
人が三人しかいないので、晋子は思いっきり足を伸ばして、美柑と香に訊いた。
「そうじゃ。児島誠司の意識が戻ったけぇな」
「新幹線は何時なんかね」
「十時十一分発の『のぞみ十八号・東京行き』ぞな」
まるでクイズに答えるかのように、美柑が元気に言った。
「ほんなら、朝はわりとゆっくりできそうじゃね」
手で呑みに行こうと合図を送る。
――今夜、もう一軒行かん?
そう言っているのが、美柑にも香にもすぐ分かった。
「お世話になっとるけぇ、本部の桂警視にも挨拶してから行かんとおえんじゃろ。まあ、普通じゃな」
香はそう答えながら、目だけで晋子に返した。
――ええよ。
そして、この夜。
三人は湯田温泉の焼き鳥屋へ流れ、美柑の伊予弁、香の岡山弁、晋子の山口弁が、ついに遠慮なく爆発することになる。




