第三章「死んだ女が、海から呼びよる(六)」
(六)
六月八日、午前十時三十分。
美柑達は、椋梨慎吾の家宅捜索時に見つけた古い電話帳から場当たり捜査で、連絡も付いた、椋梨と中学時代から付き合いだという男、大村益一(おおむら・ますかず五十八歳)に話を聞くため、捜査車両で下関・唐戸に向かっていた。
下関インターを降り下関港線(県道五十七号)を海の方向へ走ると「唐戸」交差点に至る。そのまま国道九号線に入り、少しいくと、年期の入ったビルの一階に待ち合わせ場所の「カフェレスト・ディアトロ」がある。店に入ると、黒髪で背が高く痩せ型の男性がテーブルに座っていた。
「遅うなって、申し訳ありません」
と晋子が詫びて、手帳を見せた。美柑と香も同様に手帳を示した。
「いえ。椋梨慎吾のことで訊きたいっちゅうて、聞いちょりますが」
大村益一が話を切り出した
「瀬戸凪沙をご存じですかね?」
晋子が穏やかに訊いた。
その名前を聞いた大村は嫌な顔をした。
「もちろん知っちょります。慎吾を捨てて、男と逃げた女じゃけぇの」
その言葉には棘があった。
《まあ、椋梨慎吾の側の人間じゃけん、そう言いたくなるんも分かるぞな》
美柑は、そう受け止めた。
実際、凪沙と椋梨慎吾は夫婦だった。
その夫を置いて別の男と消えたのだとすれば、椋梨の友人が凪沙を悪く言うのも無理はない。
ただし、それと椋梨慎吾自身の問題は別だった。
「俺は変わる」とか、
「今度こそ真面目になる」
と言う割に働かない。
優子は凪沙に、
「働かない奴なんかと離婚した方がいい」
と説得した。
「うちが、頑張ればいいだけぞな」
と、凪沙が言っていたと、優子が話してくれた。
「ただ、椋梨さんも居酒屋を辞めたあと、凪沙さんだけに働かせて、自分は遊び回っちょった……そういう話も聞いちょります。そのあたりは、ご存じですかね」
もちろん晋子は「不倫」に対して凪沙を擁護していない。
だが、椋梨慎吾が働かず、遊び回っていた事実に変わりがない。
「それは……俺にも問題があったんじゃ」
というと、頭を下げた。
「いえ、責めちょるわけじゃありません」
晋子が、頭を下げている大村に優しく声をかける。
「椋梨さんは、凪沙さんのことをどねぇに言うちょりましたかね」
と訊いた。
「重い子……」
少し考えて大村はそう言った。
「それは、どういう意味ですかね」
「これはあくまで慎吾から聞いた話なので……」
「はい」
「凪沙は、自分が注いだ愛情と同じものを、相手にも求め続ける子じゃった。慎吾は、そう言うちょりました」
大村はそこで、コーヒーを一口飲んだ。
『一途なんは、ええことじゃ。けど、それが過ぎたらおえん。男にも同じだけ想うてほしい……そう願うだけならまだええ。けどあの子は、それを口に出して、相手に背負わせてしまう子じゃったんよ』
花吹雪の弥生が言った言葉が美柑の胸に蘇る。
「でも、愛した分だけ愛してほしい思うんは、そんなに悪いことなんぞな?」
不意に美柑が話に割り込んだ。
《……けど、それを背負わされる側は、どがい感じるんじゃろ》
「……確かに、慎吾も最初は、想われることが心地よかったと、言うちょりました」
そこで、大村は言葉を選ぶように間を置いた。
「ただ、凪沙さんの想いは、中学の頃から逃げ癖のあった慎吾にゃあ……ぶち重かったんじゃと思います」
椋梨慎吾が、凪沙の思いを受け止める度量があれば……。
今更、たらればの話をしてもどうしようもないことは、美柑でも理解できていた。
《……現実は残酷ぞな》
凪沙の結末を知っているだけに、美柑の胸はじくじくと痛んだ。
大村との聞き取りを終えたあと、美柑たちは壇之浦にある、みもすそ川公園へ立ち寄った。
海峡に向かって並ぶ長州砲のレプリカ。
源義経と平知盛の像。
そして、目の前に広がる関門海峡。
ここが、歴史の転換点であったことを、嫌でも思い知らされる場所だった。
海沿いの柵の向こうには、本州と九州を結ぶ関門橋が見える。
その下を、貨物船がゆっくりと通り過ぎていく。
美柑はしばらく、潮の流れを眺めていた。
平家が滅びた海。
壇之浦――。
そして、幕末には長州が異国と砲火を交えた馬関の海峡。
源平の時代も、幕末も。
この狭い海は、何度も歴史の転換点になってきた。
「歴女」の美柑にとって、ここは感じることの多すぎる場所だった。
海峡の向こうに見えるのは、四国ではない。
けれど美柑は、見えない海の先にある松山のことを思っていた。
『けどな、うちはあの人と一緒になる時、親の反対押し切って家を出たんじゃ。今さら帰れる場所なんか、どこにもねぇんよ』
児島誠司の妻、恵美の言葉が、美柑の胸に刺さる。
《凪沙さんもこの海を見て、松山の方を見とったんじゃろうか》
自分は、すでに亡くなっている人間の過去を辿っている。
それが専従捜査官という仕事だと言えば、それまでだ。
けれど、凪沙の足跡を拾えば拾うほど、美柑には彼女の心まで覗き込んでいるような気がしてならなかった。
それが、辛かった。
「何を考えちょるんかね」
晋子が話しかけてきた。
「うちらの仕事は、過去の真実を見つけることじゃ」
香も、美柑の横に並んだ。
何も言わず、晋子の言葉を聞いている。
「……でもな、それは時々、亡くなった人の心を覗くことにもなるんよ。同じ人間じゃけぇ、辛うなることもある。感傷的にもなるっちゃ」
美柑は、泣かないようにするだけで精一杯だった。
「晋子さんや香さんも、何度も経験してきたんぞな?」
そう訊くと、晋子は小さく笑った。
「そうじゃ」
香が、美柑の肩にそっと手を置いた。
「じゃけぇ、感情に流されて真実を見誤らんように、うちらは目ぇを鍛えるんよ」
と、美柑にウインクをして笑った。
「泣きたいもんを見ても、見落としたらいけんもんは見落とさん。こういう目じゃ」
晋子は、自分の目を指さして、また海峡へ視線を戻した。
「刑事の目いうんは、そうやってできるんっちゃ」
美柑は素直に晋子と香に感謝した。
その時、晋子のスマホに着信の音が鳴った。
「はい、高杉です。……はい。……えっ、青海島で? ……はい、分かりました。すぐ向かいますけぇ」
「どうしたぞな?」
と美柑が晋子に訊いた。
「椋梨慎吾と思われる遺体が、青海島の海岸で見つかったっちゅう連絡じゃ」
美柑と香が、思わず顔を見合わせた。
「青海島……」
香が低く呟いて、
「事故かね」と訊いた。
「まだ分からん。ただ、磯釣り中に高波にさらわれた可能性が高いっちゅう話じゃ」
晋子はスマホを握り直した。
「うちらも、すぐ現場へ向かうっちゃ」
そう言って、晋子は足早に車へ向かった。
美柑と香も、その後に続いた。
美柑達は、壇ノ浦から来た道を戻り唐戸市場の前を通過した。
唐戸から青海島までが約七十km。
有料道路優先で約一時間三十分程度かかる。
すでに現場には長門署の捜査員が向かっているので、サイレンは鳴らさなかった。
それでも、車内の空気だけは重い。
青海島は、北長門海岸国定公園を代表する景勝地の一つで、「海上アルプス」とも呼ばれる断崖や奇岩の景観で知られている。
午後一時過ぎに壇之浦を出た捜査車両は、山陰側へ向けて走った。
午後二時半過ぎには長門市仙崎へ入り、青海島の海岸に着いたのは、午後二時四十五分を少し回った頃だった。
美柑は青海島へ向かう車の中で、
《凪沙さんは、うちらに過去を知られたくないんじゃろか?》
宇多津亮が京都で殺された。
児島誠司は、命こそ取り留めたが何者かに襲われている。
そして今度は椋梨慎吾だった。
すべて瀬戸凪沙に深く関わってきた男達である。
偶然だ――。
そう考えるべきなのは分かっている。
《凪沙さんの過去に触れた男らが、ひとりずつ消されよるみたいぞな》
それは事件ではない。
少なくとも、椋梨慎吾については事故の可能性が高い。
それでも美柑には、そこに「死者の意思」のようなものが働いている気がしてならなかった。




