第一章「うちの名は浦波美柑じゃ(二)」
(二)
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二十五年前の平成十三年七月十五日。天候は雨。
この日、三津浜港へ入港した周予汽船のフェリーから「乗客が船から転落した可能性が高い」との通報が愛媛県警本部へ入る。船内に残されていた荷物、乗船名簿から行方不明者は瀬戸凪沙、三十五歳と判明する。ただし目撃者はいなかった。前日から降っていた雨の影響で甲板は滑りやすい状況だったため転落事故と見られた。
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「ふむふむ」
と美柑は、文字をなぞりながら資料を口に出して読んだ。これは小さい頃からの癖で、口に出して読むことで、文章を覚えやすいからだった。
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数日後、松山市梅津寺から高浜にかけての海岸で凪沙の遺体が発見される。司法解剖の結果、頸部に不自然な圧迫痕が確認された。
この時点で、瀬戸凪沙フェリー転落事件は、単なる海難事故ではなく、殺人の疑いを含む変死事件として扱われることになった。愛媛県警は、船内で何らかの暴行を受けた後に海中へ転落した可能性もあるとして、松山西署に捜査本部を設置した。
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「なるほど」
美柑は事件概要の資料を読み終えると、瀬戸凪沙に関する資料に手を伸ばした。
瀬戸 凪沙――。
昭和四十一年六月十八日、松山市三津浜で生まれる。
昭和五十四年三月・松山市立三津浜小学校 卒業
昭和五十七年三月・松山市立三津浜中学校 卒業
「うちらの先輩やん」
と美柑が、呟いた。
昭和六十二年二月。二十歳。
一身上の都合により退職。
その後、当時松山市内で知り合った既婚男性と、駆け落ち同然に岡山へ移り住む。男は松山市在住で、妻子があったとされる。
岡山では夜の仕事を転々としていた模様。現在、勤務先として確認されているのは、岡山県倉敷市のスナック「花吹雪」のみだった。
ここまで読んだ美柑は、不意に立ち上がった。
「どうしたの」
と柑奈が訊ねると、美柑は真顔で、
「うち、朝ご飯食べてないけん、お腹すいたんよ」
少しガクッとした柑奈はスマホで時間を確認した。
午前十時五十八分。
「まあ、少し早い気もするけど、あたし達も行きましょうか」
と勝平に訊いた。
「そうだねぇ。そうしようか」
「いまじゃったら「ひので屋」もすいとるんやない?」
善は急げということで、三人は署の近くに店を構える三津浜焼きの名店「ひので屋」へ入店した。美柑の予測に反して、開店早々にもかかわらず、店内はすでに鉄板の熱気とソースの匂いでいっぱいだった。五つしかない席はほとんど埋まり、持ち帰りの注文を告げる電話が、奥でひっきりなしに鳴っている。
「すまん、そば台付肉玉油三つ、つかぁさい」
美柑は座るなり言った。
「こら、勝手に決めない」
柑奈が睨む。
「ひので屋来て、それ以外に何食べるんよ。牛脂の甘みが違うんよ、ここは」
「でも、ビールを呑みたくなってくるねぇ」
勝平が 恨めしそうにメニューのビールを眺めていた。
「それと、白ご飯も頼まい」
「え?」
柑奈が眉をひそめた。
「三津浜焼きにご飯まで食べる気?」
「もちろん食べらい。ソースと牛脂でめっちゃ飯が進むんよ」
それが何か問題でも?と言いたげな目で、柑奈を見る。
「そら、痩せないわけだわ」
「そりゃ、年頃の妹には言われんフレーズぞな」
と美柑はぷうっと頬を膨らませた。
「しっかり食べて、しっかり寝るというのが、うちの健康法なんぞな」
「はいはい」
柑奈はあきれて顔を振った。それを横で見ていた勝平が、
「いいですねぇ。姉妹の話っていうのは。癒やされますねぇ」
と、へらを手に持って言った。
美柑は、鉄板の上の三津浜焼きをヘラで一口大に切った。焦げたソースと牛脂の甘い匂いが、ふわりと立ち上がる。
「ほら、これよこれ。この匂いがええんよ」
と言いながら、ヘラに乗せた三津浜焼きを、はふはふ言いながら口へ運んだ。ソースを吸ったそば、甘い牛脂、キャベツの歯ざわり。そこへ間髪入れず、箸で白米をかき込む。
「……幸せじゃ」
「あんたって、昔から何かを食べているときは幸せそうな顔をするよね」
柑奈が言うと、美柑は口をもぐもぐさせたまま、
「だって、しんからしあわせなんじゃけん。嘘はつけんわい」
と、否定はしなかった。
「いいかい美柑ちゃん、決して一人で動かないようにと、言っておくからねぇ」
店を出て、本部に戻る勝平が美柑に注意をした。
「分かっとるよ、勝平兄ちゃん」
バイバイと手を振って見送った美柑と柑奈は署に戻ろうとした。
「さあ、続きをやるよ」
「ちいと待って、かな姉」
「何?」
「凪沙さんの実家ってこの近うぞなもし(この近くだよね)」
「え、確かそうだったと思うわ」
柑奈は、嫌な気配を感じた。
「うち、ちいと見て来るわ。ついでに話も聞いてくるけん」
「はあ?さっき勝平の注意を聞いてなかったの?」
「ん?聞いてないわい」
美柑のあっけらかんとした返事に、柑奈はがくりと肩を落とした。
「はあ、あんたって子は。一人での行動はしちゃだめって、勝平は言ったの」
と、もう一度美柑に言った。
「ほやけん、ミステリーって足でトリック見破るんぞな」
美柑は丸眼鏡をくいっと押し上げた。
「かな姉も一緒に来ればええやん」
柑奈は、深くため息をついた。
「……本当に、誰に似たのか……」
「資料だけ見よっても、何も解決せんけんのぉ」
美柑が、変に胸を張った。
「分かった。わかったから、ちょっとここで待ってて」
とりあえず美柑が動かないように念を押して、
「直ぐ、荷物を取ってくるから」
と言った。
「分かったけん、早うもんてきてね(戻ってきてね)」
と、返事をして、オレンジ色のスマホを取り出してポチポチやり出す。
『伊予柑が、うちを虐めた~』
宝塚歌劇を見に行っている、きういにメールをした。
『はあ?お前が何かしたんやないんか?』
と、きういから関西弁で返ってきた。
これは母親の影響によるものだ。父親のゴンザレス……いや、権蔵はバリバリの伊予弁なのだが、母親の華蓮は、お婆ちゃんが関西弁なので、その影響をうけていた。
美柑→伊予弁。
きうい→関西弁。
柑奈→怒らない限り標準語。
という、物語でわかりやすい三姉妹となった。
『うちにそんなこと言うてええと思っとる?』
と、送ったが数分かかって返事が来た。
『あんた、弁護士の私に向こて、なんちゅう口の利き方や』
『神楽ちゃん……』
と、書いたら、
『え?わたくしのオスカル様ぁ♡』
今度は「秒」で返事が来た。
『うち、神楽ちゃんについて重要な話握っとるけんど』
『ええ、何ぃ。聞かせてぇ』
「フッ。ちょろい」
美柑は、スマホを見ながら呟いた。
きうい姉を釣るには、餌がいる。
姉の場合、その餌は神楽さん一択だった。
大月神楽――二十八歳。
京都府警本部捜査一課にいる、桔平兄ちゃんの相棒――というより、保護者みたいな女刑事である。
浦波三姉妹とは子どもの頃からの顔なじみで、宇賀田神社の祭事で何度も会っている。
背が高く、綺麗で、声は静かなのに、人を逃がさない。
きうい姉は、その神楽さんを勝手に「現実に存在するオスカル様」と呼んで崇拝していた。
『あんた、私ををたぶらかそうとしとらん?』
おっと。
どうやら、警戒しているらしい。
しかし、美柑はにやりと笑った。
《末娘侮ったらだめぞな》と思い、
『別に聞きとうないなら、うちゃええんじゃけど……きうい姉ちゃん、もんて来るの、来週ぞなもし(戻ってくるの、来週でしょ)』
今度は、三秒で返ってきた。
『降参します。私は美柑ちゃんに尽くします』
《勝った》
美柑は心の中でガッツポーズをした。
『よう言うた。ほいでこそきうい姉ちゃんぞな』
『それで、それで。神楽ちゃんがどうしたの?教えて、教えて!きゃぴっ!(絵文字)』
《ぶりっ子か、お前は》
美柑は、スマホの画面を見ながら少し引いた。
『もうじき、伊予柑がもんてくるけん今は言えんのよ』
『悪魔かお前は(怒)』
こういう関西系のノリが、きういなのだ。
『ほうじゃけん、夜にでも話すけん、期待して待っとってつかぁさい』
と言う美柑のメールに、
『わかった。待ってるね♡♡♡』
の後に、
『そやけどお前、ふざけた情報やったら、パンパンやで(ぱんち)』
と、弁護士らしからぬメッセージを送ってきた。
《どこのバラエティぞな。動画で知っとるけど》
母親経由で宝塚と平成バラエティを同時に吸収した結果、きうい姉の関西弁は時々、年代が分からなくなる。
もっとも、法廷に立つきうい姉は別人だ。
長い黒髪を揺らしながら、理路整然と事実を積み上げる。
相手の主張の矛盾を一つずつ崩し、最後には、まっすぐ裁判官を見据えて言うのだ。
「それ故に、弁護人は被告人に無罪判決を求めます」
そんなきうい姉のキリッとした……、
《裏の顔、知っとるのはうちだけじゃけん》
美柑は、スマホを見ながら、ひとりほくそ笑んだ。
実際、かな姉とは、八歳差があって、美柑にしてみれば、綺麗で勉強もできる柑奈は、雲の上の存在に見えていた。しかし、きういにしても五つ離れているが、きうい姉はいつも傍にいてくれた……と思う。
「おまたせ」
と柑奈が荷物を持って帰ってきた。




