第三章「死んだ女が、海から呼びよる(三)」
(三)
長門屋の女将直々に部屋へ案内された美柑と香は、畳の上に荷物を置くと、すぐに凪沙のことを尋ねた。
女将は、晋子から前もって話を聞いていたのだろう。驚いた様子は見せなかった。
ただ、ほんの一瞬だけ、窓の外に見える庭へ視線を逃がした。
それから、覚悟を決めたように、美柑たちへ向き直る。
「ええ、瀬戸凪沙ちゃんなら、よう覚えちょりますよ」
長門屋の女将・長門千鶴子は、はっきりと言った。
「当時の凪沙さんは、どねぇな感じじゃったんですか?」
香が、訊いた。
「そうじゃねぇ。笑う顔が、ほんに愛らしい子じゃった。よう働いてくれちょった気がします」
笑顔が愛らしい――。
倉敷での出来事を訊いているだけに、女将の言葉が、美柑には辛かった。
「ただ、男運はなかった子じゃねぇ。そいで、嘘を信じてしまう子じゃった」
当時、若女将だった千鶴子は苦い顔をした。
「うちも含めて、あの男はやめちょきさんせって、何度も言うたんじゃけどねぇ……一途いうか、思い込んだら聞かん子じゃったんよ」
男に奥さんがいると聞いて直談判した凪沙――。
「花吹雪」の弥生さんから聞いた凪沙の話――。
そしていま、女将が話す強情な凪沙。
《愛情が深いというか……愛されることに、必死じゃったんかもしれんぞな》
美柑は、写真でしか知らない凪沙を思う。
「それで、二十五年前にも、山口まで来とったらしいんですが」
美柑が女将に訊いた。
「はい。博覧会の時に、男の人を連れて、うちに泊まってくれちゃったんよ」
「よう部屋が空いとりましたな」
「もともと、早うから男性の方が二名様で予約を入れちょってでしたけぇ。……じゃけど、実際に来ちゃったんは、男性一名と、凪沙ちゃんじゃったんよ」
女将は、少しだけ記憶をたどるように言った。
《ん? そん時、凪沙さんは三十五歳じゃ。久しぶりに会うたんじゃけん、普通は旦那さんやと思うぞなもし》
美柑はそう思い、女将に直接ぶつけてみた。
「なんで、旦那さんやのうて、“男の人”なんぞな?」
「ああ、久しぶりに顔を見たけぇ、嬉しゅうなって、うちが声をかけたんよ」
女将の話では、久しぶりの再会を喜んだ千鶴子が、
「あちらの方は、旦那さんなん?」
と、聞いたのだという。
その時、凪沙は一瞬だけ躊躇して、
「……はい」
と答えた。
「ただ、その時の笑顔が、ぶち寂しそうじゃったんよ。それで、うちは気づいたんじゃ」
千鶴子は、そこまで話すと口を閉じた。
その横で、渋い顔をして話を聞いていた大番頭の伊藤彦次郎が、古びた帳簿のようなものを差し出した。
「女将さん……これを」
女将は受け取ると、付箋のあるページをめくって美柑達の前へ差し出した。
その「予約名簿」には、
――平成十三年七月十二日~七月十三日 黒田啓輔 男性二名
と記されていた。
もう、美柑の心はいたたまれなくなっていた。
もしこの場に桔平がいてくれたら、大泣きする自信があった。
「なんで、二十五年前の予約名簿をまだ持っとるんぞな?」
美柑の声が上ずってしまった。
しかし、その声に反応したのは、千鶴子の方だった。
大番頭の伊藤彦次郎も、目元を赤くしている。
千鶴子は涙をいっぱいに溜めたまま、美柑を見つめた。
「刑事さん。ひとつ、お願いしてもええですか」
「え?」
「若女将……無理をしたらいけんぞな……そう、言うてもらえませんか」
美柑は戸惑った。
なぜ自分にそんなことを言わせるのか、すぐには分からなかった。
「……あの子は、そう言って……いつもうちの肩を揉んでくれちょったんです」
千鶴子の声が震えた。震える指が、予約名簿の端を握りしめているのを見て、美柑は息を呑んだ。
「わ……若女将。無理をしたら……いかんぞな」
美柑がそう言うと、千鶴子の目から大粒の涙がこぼれた。
「……ありがとう。凪沙ちゃんの声が、帰ってきたみたいじゃ」
千鶴子は、泣きながら笑った。
彦次郎は、「はい……はい」と言って老眼を外して涙を拭っていた。
その顔を見た美柑は、もう限界だった。
倉敷の弥生、山口の千鶴子と彦次郎――。
少しだけ後ろを振り返れば、こんなにも自分のことを思ってくれている人たちがいたのに……。凪沙は、それに気づけなかったのだろうか。
香も泣いてしまって、もう聴取どころではなくなった。晋子は立ち上がって窓の外を見ているが、肩が震えていた。
『警察官も人間や。感情に流される時があってもええねん』
桔平が言った言葉を、美柑は思い出していた。
人が亡くなった悲しみは、消えることがない。
みな、忘れたふりをして生きているだけなのだ。
ひょんな拍子に、その琴線に触れると、たちまち悲しみが溢れてくる。
それは何十年経っても変わらない。
美柑は、そのことを初めて知った。
凪沙が死んで二十五年。
けれど、凪沙を覚えている人たちの中では、まだ昨日のことのように痛みが残っている。
《人が生きとった証いうんは、こういうところに残るんじゃな》
美柑は、涙を拭うことも忘れて、千鶴子の顔を見つめていた。
その夜、美柑は香と晋子に誘われ、長門屋の大浴場へ向かった。
脱衣所には、古い籐のかごが整然と並んでいた。
壁際の扇風機が、低い音を立てて首を振っている。
鏡の前には、年季の入った木の椅子と、少し色の褪せた化粧水の瓶。
新しいホテルの清潔さとは違う。
何十年も、ここで女たちが髪を乾かし、ため息をつき、また明日の顔を作ってきたような場所だった。
浴場の戸を開けると、白い湯気がふわりと押し寄せた。
石鹸の匂い。
湯の匂い。
古いタイルに跳ねる水音。
広い湯船の奥には、白い狐が湯を見つけたという伝説を描いたタイル絵があった。
薄い青の山影と、湯けむりの中に立つ白狐。
「感情に流される時があってもええねん……か」
香が、しみじみ桔平の言葉を言った。
「うん」
美柑はまだ先程の聴取のことを引きずっていた。
「ええ言葉じゃな」
倉敷の話を香と美柑から晋子も頷いた。
その時、香がふと思い出したように顔を上げた。
「……もしかして、桔平さん、ちゃんと録音しとったんじゃないん?」
「え?」
「花吹雪で最初に言うとったんじゃろ。『一緒に来てる刑事にも聞かせたいんで、会話を録音させてもろてもええですか』って」
美柑の中で、あの時の光景がよみがえる。
桔平が、テーブルの上にスマホを置いた。
その画面には、確かに「録音中」と表示されていた。
「……そうじゃ」
美柑は思わず呟いた。
「録音中、じゃった……」
美柑は、呆然と呟いた。
「じゃあ、なんで桔平兄ぃ、録音取れてへんなんて嘘ついたんぞな」
誰も、すぐには答えなかった。
湯気の向こうで、香が静かに目を伏せる。
「多分じゃけど」
香は、ゆっくりと言った。
「弥生さんの気持ちを、知ってしまったからじゃないかな」
美柑は、言葉を失った。
弥生の震える指。
凪沙に代わって頭を下げた姿。
『また来てつかぁさいな』と言った、あの寂しそうな顔。
『警察官も人間や。感情に流される時があってもええねん』
《桔平兄ぃ……》
美柑は、溢れてくる涙を、お湯に顔をうずめて隠した。
「ええ男じゃね」
晋子が遠い目で呟いた。
「懲戒もんかもしれんのに、人の気持ちを大事にする刑事か……一度、会うてみたいっちゃ」
「顔は男前じゃけぇな。あとでスクショあるけぇ、見せたげよか?」
香が話を大きくした。
「うん、見せて。ついでに連絡先も教えてくれん?」
晋子の目が、明らかに獲物を見つけた時のそれになった。
《聞こえとるけん。会わんでええぞな》
美柑は、顔をお湯に沈めながらプーッとふくれた。




