第三章「死んだ女が、海から呼びよる(二)」
(二)
六月六日(土)午後午後一時二十六分。
岡山駅に「のぞみ二十三号・博多行き」が、定刻通りに入線してきた。
土曜日ということもあって、ホームには多くの客がいた。旅行鞄を引く家族連れ、出張帰りらしいスーツ姿の男、スマホを片手に列車番号を確かめる若者たち。
その人波の中を、美柑と香は六号車へ向かった。
二人の席は、六号車十二番D席とE席だった。
美柑は窓側のE席に腰を下ろす。隣のD席には、木尾香が座った。
やがて扉が閉まり、「のぞみ二十三号」は静かに岡山駅を離れていく。
《弥生さん。凪沙さんがその後どねぇ生きたんか、うちがちゃんと拾ってくるけん》
流れる車窓を眺めながら、美柑は心に誓った。
「これじゃと、岡山十三時二十六分発、新山口十四時三十三分着ぞな」
美柑は頭の中にある時刻表を披露した。
「ほんなら、それを山口県警に報告しとくけぇ」
香はスマホを開き、メールを送った。
「駅まで、迎えに来てくれるみてぇじゃな」
「誰ぞな」
「えーと、山口県警本部捜査一課、専従班の高杉晋子巡査部長じゃそうな」
歴史女子の美柑が、高杉という名前に反応した。
《女版、高杉晋作ぞな》
新山口駅で降りた瞬間、美柑は少しだけ肩透かしを食らった。
山口県の玄関口というから、もっとごつごつした駅を想像していた。
けれど改札の向こうに広がっていたのは、広すぎず、狭すぎず、人の流れだけがゆっくりほどけていくような空間だった。
旅行鞄を引く家族連れ。スーツ姿の男。観光案内所の前で地図を覗き込む老夫婦。
その向こう、南北自由通路の緑が、六月の光を受けて静かに揺れている。
《山口に来たんじゃな》
美柑は、胸の奥でそう呟いた。
ここから先は、瀬戸凪沙が最後に見た土地の記憶をたどる旅になる。
一度目は、児島誠司との恋に敗れて辿り付いた、平成元年から平成四年まで。
二度目は、平成十三年七月十四日。
ここで開催された「山口きらら博」――正式名称、二十一世紀未来博覧会に、黒田啓輔と一緒にこの地を訪れた。
この博覧会の帰路で瀬戸凪沙はフェリーから転落して亡くなっている。
《凪沙さんは、この駅に降り立った時、どがいな気持ちじゃったんぞな》
感情移入をしてはいけないと分かっていても、同じ女として悲しい気持ちになるのは仕方がない。
美柑は、資料の中にあった数枚の写真を思い出した。
山口きらら博で撮られたであろう写真だった。
そこに写る凪沙は、楽しそうに笑っている。
けれど美柑には、その笑顔が、どこか悲しそうにも見えた。
《凪沙さん、黒田啓輔が既婚者やって、知っとったんやないんかな》
そう思った瞬間、美柑の胸の奥に、じわりと怒りが広がった。
「美柑ちゃん」
香の声で、我に返った美柑の前に、背の高い女性が立っていた。柑奈のようにキリッとしたスーツに身を包み、髪はボブで少し赤い。眼鏡の奥から覗く鋭いまなざしは香にはないものだった。
「お待たせしました。山口県警本部捜査一課、専従班の高杉晋子巡査部長です。新山口まで、ようお越しくださいました」
《伊予柑とは違う迫力があるぞな》
美柑は気押されそうになった。
「ご丁寧にありがとうございます。岡山県警本部・巡査部長の木尾香です」
香も標準語で挨拶を返した。
「愛媛県警、松山西署、巡査部長の浦波美柑ぞな……です」
美柑は慌てて語尾を直した。
「長旅で疲れちょるでしょうけど、状況が状況じゃけぇ、すぐ県警本部へ向かいます」
美柑につられて晋子も方言になった。
「こちらです」
晋子に案内され、美柑と香は新山口駅の新幹線口を出た。
南口のロータリーには、黒い捜査車両が停まっていた。二人が後部座席へ乗り込むと、晋子は運転席に回り、静かに車を発進させる。
車は南口のロータリーを右へ出ると、前田町交差点も右へ曲がり、国道九号線の高架道路へ入った。
新山口駅前の建物が後ろへ流れていく。
「県警本部は、山口市の滝町にあります。県庁のすぐそばじゃけぇ、ここから三十分ほど見とってください」
晋子がハンドルを握ったまま言った。
「新幹線の駅から、県警本部までは少し離れとるんじゃな」
美柑が窓の外を見ながら呟く。
「そうっちゃ。新山口は山口県の玄関口じゃけど、県庁や県警本部があるんは山口市の中心部なんよ」
「なるほどなぁ。頭の中の地図を描き直さないかんぞな」
美柑は、流れていく道路標識を見ながら、山口の地図を胸の中で広げた。
「国道九号線……」
美柑は道路標識を見上げた。
「これ、京都まで続いとる道ぞな」
「よう知っちょるね」
ハンドルを握る晋子が、少しだけ感心したように言った。
「正式には京都の烏丸五条から、山陰を通って下関まで続いとる長い国道ぞな。堀川五条から先は、国道九号として西へ伸びていくんよ」
「ぶち詳しいっちゃね」
「時刻表と地図は、うちの武器ぞな」
美柑は、流れていく道路を見つめた。
京都から山陰を通り、山口へ至る道。
桔平や神楽のいる京都と、凪沙が最後に辿り着いた山口が、一本の道でつながっている。
そう思うと、胸の奥が少しだけざわついた。
《道いうんは、不思議ぞな。離れとる場所まで、ちゃんとつながっとる》
美柑はここ数日に見た桔平を思い出していた。
本部に案内された美柑と香は、捜査一課長の桂小太郎警視と面会し、椋梨慎吾の行方について話を聞いた
桂は、背こそ高くないが、肩幅の広いがっちりした男だった。腹まわりには少し丸みがあるものの、緩んだ印象はない。柔和そうな顔立ちの奥に、現場を長く踏んできた刑事の目があった。
「すまんのう。四日前までは確認が取れちょったんじゃけど、ここ数日、椋梨慎吾が自宅に戻っちょる痕跡がのうなっちょるんよ」
桂が面目ないと言った表情で頭を下げた。
「四日前いうたら、岡山で児島誠司が襲われた日と一致しとります」
香が、すぐに日付を重ねた。
「うちらもその可能性は調べちょったんじゃけど、新幹線口の防犯カメラには、椋梨慎吾らしい姿は映っちょらんかったんよ」
桂は、脂汗を滲ませていた。
「明日までに行方が掴めんかったら、椋梨慎吾の自宅をガサ入れすることになっちょる。その時は、あんたらにも同行してもらうけぇ」
と、桂は言った。
「ま、今日は山口に着いたばっかりじゃけぇ、うちらが手配しちょるホテルへ案内するけぇね」
晋子に促されるような形で、美柑と香は会議室を退室した。
「香さん、どがい思うぞな」
ホテルに向かう車の中で、美柑が香に訊いた。
「うーん。椋梨慎吾が岡山まで来て児島を襲うたいうんは、考えにきぃな。うちは、そこは薄いと思うとる」
香は、きっぱりと椋梨犯人説を否定した。
「そうじゃな。うちも同じ意見ぞな」
美柑も同意した。
「じゃが、腹減ったぞな」
どちらかと言えば色気より食い気な乙女である。
「山口まで来たんじゃけぇ、腹減ったんならちゃんと食べてもらわんにゃいけんね」
晋子が前を向きながら話に入ってきた。
「ほいで、さっきから妙におとなしゅうしとったんじゃなぁ」
香がケラケラ笑い出した。そして車内は晋子も混じって、女子会のように話しに花が咲いた。
「着いたっちゃ。ここがホテル長門屋じゃけぇね」
ホテル長門屋――。
山口県山口市湯田温泉三丁目
凪沙が、平成元年四月から平成四年まで、児島誠司との恋に敗れ、倉敷を離れたあと、ここで住み込みで働いていた旅館だった。
「さすが高杉さんじゃ。しっかりとポイントを押さえとるぞな」
美柑は感激した。
晋子はそれに気づいて、ウィンクして応えた。
ホテル長門屋は、湯田温泉三丁目の通り沿いに建つ老舗旅館だった。
玄関の大きな庇と、筆文字の看板には、観光ホテルというより、長い年月をそのまま背負ってきた宿の重みがあった。
自動ドアをくぐると、磨かれた石の床に、ロビーの灯りが淡く映っていた。萩焼の大きな壺。低いソファ。庭へ向かって開かれた大きな窓。その向こうには、夜の池が静かに光を返している。
「ここが、長門屋……」
美柑は、思わず呟いた。
ここで、瀬戸凪沙は働いていた。
客として見る長門屋は、品のある温泉宿だった。
けれど美柑には、フロントの奥へ続く細い通路の方が気になった。
客には見えない、従業員だけが通る暗い廊下。
《凪沙さんは、あっち側の人やったんじゃな》
美柑は、その奥に、凪沙の時間がまだ残っているような気がした。




