第二章「その嘘、綺麗に剥いちゃる!(六)」
(六)
会議終了後、桔平の姿が見えないので、心配になった、美柑は神楽に相談した。
「心配しなくても大丈夫です。多分、屋上の「オアシスという名の喫煙所」で、至福の時間を過ごしてますよ」
と、意味ありげなことを言ったので、美柑は屋上へ上がった。
辺りを見渡すと、隅の方に喫煙所が設けられてあり、そこで景色を見ながら、煙を噴かしている桔平を見つけた。
「桔平兄ぃ。何しよるんぞなもし」
「おお、美柑見てみぃ」
桔平は煙草を指に挟んだまま、倉敷の町並みを顎で示した。
「人間の心の中はドロドロしとるけど、景色は裏切らへん」
と、美柑に語った。
「こういうとき、正岡子規のように句を詠みたぁなってくんねん」
《それは無理じゃろ》
恋する乙女心でも現実は理解するらしい。
「……そやから、たまに上から見たなるんや」
《桔平兄ぃ、たまにこういうこと言うけん、ずるいんよ》
美柑は、いつもふざけているくせに、不意にこういう横顔を見せる桔平に心がざわめく。
「では、一句詠んでくださいな」
あとからゆっくり屋上へ上がってきた神楽が言った。
「ええやろ、俺の隠れた才能を知って驚くなよ」
ゴホンと咳払いをして桔平は、
「腹減った~何か食いたい~腹の虫ぃ」
「なんですかそれは」
「ん?完璧やんけ。五七五や」
と桔平が胸を張る。
「なにどや顔でいっているんですか。季語も何も目茶苦茶です」
と、神楽は呆れながらも笑った。
「何でや。腹減った、で五。何か食いたい、で七。腹の虫ぃ、で五やろ」
「最後の“ぃ”で調整しないでください」
《桔平兄ぃ、力技ぞな。才能、最後まで隠れたままじゃったぞなもし》
恋とは、何でも許せるものなんだろう。
「まあ、冗談はそこまでとして」
神楽が、静かに話を戻した。
「さっき会議で聞いた話ですが、児島誠司の家族には、すでに連絡が入っているそうです。けれど、今のところ、誰一人として病院へ駆けつけていないそうです」
美柑は、顔を上げた。
「誰一人、ぞな?」
「ええ。妻も、子も」
「何でや」
「そこまでは分かりません」
「けど、香さんが児島誠司の家族に話を聞きたい言うて連絡入れたら、『いつでもどうぞ』言うとったらしいぞな。ほやのに、病院には誰も来とらんのじゃろ?」
「梅雨空の~人には見えぬ~家族愛~」
桔平の頭の中は、いまだに正岡子規だった。
「……少しだけ上達しましたね」
神楽が言った。
「そやろ」
《桔平兄ぃ、たまに核心を外しながら突いてくるけん、ややこしいんよ》
美柑は、児島誠司の家族が誰一人病院へ来ていないという事実に見てはいけないものを見に行く気がした。
児島誠司の自宅は倉敷駅にほど近い、倉敷市祐安にあった。
途中、事件現場の伯備線の踏切に立ち寄った。
すでに規制線は外されている。
だが、アスファルトには、鑑識が書いた白いチョークの跡がまだ残っていた。
血痕の位置、倒れていた場所、鞄が落ちていた場所。
それらを示す短い線と数字が、ここで何かが起きたことだけを無言で語っていた。美柑と神楽はその痕跡を一つずつ辿っていく。
《財布がない。鞄は荒らされとる。ほやけど、ほんまに強盗目的なんじゃろか》
美柑は違和感を覚えた。
現場から徒歩数分のところに、児島誠司の家があった。三年前に建て直しをしていて、二世帯住宅となっている。
美柑は、妻・恵美と長男の家族が区切られているとはいえ、一緒に暮らしていて、毎日がにぎやかな感じがする。
普通の家ならば――だが。
自宅には、妻の恵美(五十九歳)と、息子の克英(かつひで・三十六歳)がいた。
刑事たち五人が全員名乗った後、神楽が質問を始める。
「ご主人はいま、危険な状態にありますが、病院の方へは行かれないのですか」
「別に、死んだら引き取りにゃあ行きますけぇ」
恵美の言葉には棘があった。
「ずいぶん冷たい言い方ですね。何か、ご事情でも?」
「まあ、人様に話すようなこっちゃねぇんじゃけどな。刑事さんらが、どねぇしても聞きてぇ言うんなら、恥を忍んで話しますわ」
恵美は愛想笑いすらせずにぶっきらぼうに話した。
「……教えてください」
一呼吸置いて、神楽が頭を下げた。
「まあええ。刑事さんらは結婚はされとるんか?」
「いいえ」
と、神楽は素早く答えた。
「うちもまだぞな」
続いて美柑も答える。
「うちも、まだじゃわ」
と、香も頷いた。
「結婚に夢なんておまへん。だいたい……いたっ」
桔平が答えて、何か言おうとしたので、神楽が桔平の尻をつねった。
「何すんねん、いきなり」
「恵美さんの質問は結婚をしてるかどうかです。夢があるかないかではありません」
「そやから、夢なんてあらへんていうてんねん」
「あの、言っていること、理解してますか」
「まあまあ、お二人さん、仲がよろしいんはよう分かりましたけぇ。そろそろ話、戻しましょうや」
香が桔平と神楽の間を割って入った。
《今のは、桔平兄ぃが悪いぞな。結婚に夢はあるけん》
夢みる乙女の美柑なのだ。当然、美柑は神楽の味方だった。
そのとき、二人のやりとりを見ていた恵美が、突然笑い出した。
「男の刑事さん、でぇれぇ面白ぇ人じゃなぁ」
と、桔平に言った。神楽が、
「はいその通りです」
と言うと、桔平が、
《はあ?》
と言いたげな顔をして神楽を見る。
「でも、男の刑事さんの言う通りじゃ。結婚に夢なんぞ持ち込んだら、うちみてぇになりますけぇな」
「恵美さんみたいとは、そういうことですか?」
児島誠司と、結婚したのは、恵美が十九歳で、誠司が十八歳の時だった。
お互いが好きという感情だけで一緒に暮らし始めた。まだ右も左も分からず、社会経験の未熟な二人がどうにか生きていくだけの仕事は、当時の倉敷にはまだあった。誠司は高卒でも、中堅の段ボール製造会社の営業職につけたし、恵美も飲食店での働き口はいくらでもあった。
「昭和いうんは、そういう時代じゃったんよ。うちらの親の頃から、暮らしはどんどん便利になっていった。冷蔵庫も洗濯機もテレビも、家に入ってきた。働きゃあ、今日より明日はようなる。みんな、そう思うとったんじゃ」
昭和を知らない世代の美柑たちにとって、恵美の話は、どこか遠い昔話のようでいて、不思議と興味を引くものだった。
美柑が知っている昭和は、資料や古い写真の中にある、画像の粗い世界だけだ。
使い捨てカメラやカセットテープ、公衆電話に差し込むテレホンカード。スマホが当たり前の世代には、それらを生活の一部として実感しろという方が無理な話だった。
《けど、うちらはうちらで生きにくいって言われてるぞな》
美柑にとって、ある方が幸せなのか、ない方が幸せなのかの答えは出そうにない。
「それでも、お互いだけを見とりゃあ、うちら、こんな夫婦にはならんで済んだんかもしれん」
恵美は、遠い昔を見るように目を細めた。
「出張が多いんをええことに、あの人は方々で女を作りょうたんじゃ」
「浮気ですか」
その一言に、周囲の女刑事たちの視線が、なぜか一斉に桔平へ向いた。
「ま……待て。俺やない」
桔平が冷や汗を掻きながら否定した。
「あれは、もうだいぶ前の話じゃ。うちがこの子を腹に宿しとるって分かった頃じゃった。腹の子のことを誠司と喜べる思うとった矢先に、若い女がうちを訪ねてきたんよ」
「……」
突然の展開に、さすがの神楽も黙り込んだ。
「訛りがきつい女じゃった。今にして思やぁ、あんたみてぇな話し方じゃったな」
と、恵美は美柑を見て言った。
「うちとおんなじ話し方なら、それ、瀬戸凪沙さんじゃないんぞな!」
美柑は、思わず身を乗り出した。
「亭主の妾じゃった女なんぞ、覚えとるだけ損じゃけぇ、忘れてしもうたわ」
恵美は苦い顔をした。
「その女性はなんと言ってきたんですか」
神楽が、優しく恵美に問いかける。
「そんなもん、妾が言うことなんか決まっとるんじゃ。『亭主と別れてくれ』じゃの、『お腹に赤ちゃんがおるんです』じゃの……ほんま、ひでぇ話じゃったわ」
そんな女が何人も家に押しかけてきたと、恵美は言う。
「それでうちはな、亭主と一緒に夢を見るんを、きっぱりやめたんじゃ」
「離婚はお考えにならなかったんですか?」
「それは今でも考えとるわ。けどな、うちはあの人と一緒になる時、親の反対押し切って家を出たんじゃ。今さら帰れる場所なんか、どこにもねぇんよ」
と恵美は、寂しそうに笑った。
「じゃけぇな、結婚いうんは一方通行じゃおえん。片っぽだけが想いを強うしとったら、その強い方が地獄を見るんじゃ」
《家におるのに、地獄。離れとうても、帰る場所がない。そがいなことも、あるんじゃな》
美柑は横にいる桔平之顔を見つめていた。




