第九十二話
門をくぐった。
奥に庭が見える。屋敷の庭は小ぶりだが手入れが行き届いていた。秋の花が咲き、真新しい丹塗りの祠と鳥居が見える。──あれが豊川稲荷の祠か。
「おう、戻ったぞ」
俊源坊が式台に腰掛けながら、屋敷の奥に向かって声を張った。まるで自分の家だ。
「はい──。あら、俊源坊様、お戻りでしたか」
「おたか殿。ちょうど、そこで一緒になってな。源一郎の客人を連れてきた」
奥から現れたのは、五十過ぎの女だった。姉さんかぶりに前掛け姿。おたかはその場にいた神谷の顔を見ると、少し目を丸くした。
「あなた様は──以前、いらした……」
「ああ。神谷と申します。先日は夜分に失礼いたしました」
神谷が丁寧に頭を下げた。おたかは合点がいった様子で頷く。源一郎から客が来ると聞いていたのだろう、すぐに表情を和らげた。
「お待ちしておりました。旦那様は奥におります。どうぞ、お上がりくださいませ」
おたかの目が神谷の隣に移る。──背の高い若侍。初めて見る顔だ。
お絹は笠を取り、おたかに向かって黙って頭を下げた。笠の下から現れた顔は白く、切れ長の目が涼しげ──その整った面差しに、おたかは一瞬何かを感じたようだったが何も言わず丁寧に会釈し、すぐに何食わぬ顔で二人を座敷に案内した。
一方の俊源坊は「俺は離れにいる」と言い残して、さっさと縁側の方へ歩いていった。案内だけして去る辺り、つくづく自由な男であった。
──通された座敷は八畳ほどの間で、秋の日差しが障子を通して柔らかく射し込んでいた。おたかが茶を運んでくる。神谷は座布団に座り、茶を受け取った。
お絹は神谷の隣に正座していた。茶には手をつけず、膝の上に手を置いている。一見すると行儀の良い若侍に見えるが──その姿勢は傍目から見ても堅い。気を張り詰めさせ、座敷の中を窺うように視線を動かしている。それはまるで、いつでも身を翻せるように重心を浮かせているかのような──。
「──お絹」
神谷が低い声で言った。
「そんな落ち着かない様子では、相手に失礼だぞ。客として待遇されているのだ。もう少し力を抜け」
「……わかりました」
お絹は短く答え、膝の上の手を僅かに緩めた。だが、目の奥の警戒は消えていない。
──足音がした。
廊下の奥から、一人の男が現れる。
──背が高い。六尺の長身に、飾り気のない紺の着流し。顔立ちは穏やかだが、切れ長の目の奥には底の知れぬ深さがある。
火付盗賊改方与力。渡辺源一郎。巷の一部では剣鬼やら鬼切と呼ばれる男──。
お絹の指が膝の上で微かに握られた。
あの夜の記憶が蘇る──。闇の中で矢を放ち、ことごとくが見切られた。組み伏せられ、縄をかけられたこと。あの夜の衝撃──剣客として、修羅場を幾つもくぐった者だけが発する武人の気迫。
「──神谷殿。ようこそいらした」
だが、源一郎の声は穏やかだった。あの夜の苛烈さなど嘘のように、物腰柔らかく座敷に入ってくる。
「渡辺殿。此度はお時間をいただき、かたじけない」
神谷が膝を揃え、軽く頭を下げた。源一郎も座敷に腰を据え、神谷へと向かい合う。
「──いえいえ。しかし、こちらに来る途中、難儀されたようで……」
源一郎が済まなそうな顔で言った。それから、言葉を選ぶように少し間を置いた。
「……実のところ、どこまで事情を話してよいものか迷うのだが。下手に口にすれば──それこそ信じがたい妄言の類と受け取られかねない話でな」
「渡辺殿。先日、私は貴殿に妹のことを打ち明けた。人には見えぬものが見える妹を持つ兄が、今更妙な話に驚くとでも?」
神谷が苦笑した。その言葉に、源一郎も小さく笑った。
「……それもそうだな。では率直に申すが──屋敷に豊川稲荷を勧請して以来、狐がこの周りに結界のようなものを張っているらしい」
「結界」
「あぁ……害意や強い警戒を持つ者は道を逸らされて辿り着けぬ仕組みになっているようなのだが──正直、こうなるとは思っていなかったのだ。師から事情を聞いた時には、まこと申し訳ないことをしたと……」
「それについては俊源坊殿に聞き申した。いや、あれは本当に貴重な経験だった。まさか、狐に化かされることになるとは、思いもしていなかった」
神谷は腕を組んで頷いた。狐の結界──常であれば荒唐無稽な話だ。だが、実際に同じ道を何度歩いても辿り着けなかった経験をした身としては、否定する気にはなれなかった。
「俊源坊殿に声をかけてもらわなければ、日が暮れるまで堂々巡りしていたかもしれん」
「重ねて詫びる。お二人のことは伝えておくので、次からはこのようなことはない筈だ」
源一郎が頭を下げてから、目をお絹に向けた。
「──して。そちらが、妹御殿ですな」
神谷は頷いた。それから、やや気まずそうに言う。
「こちらが以前話した妹のお絹になる。御覧の通り、男装しておるが──妹はこのような姿を好んでおってな……他家への訪問に此の格好はいかがなものかとも思ったが……何卒ご寛恕願いたい」
「構うことはない。うちは堅苦しい家ではありませんので」
源一郎は軽く笑い、お絹に向き直った。
「久しいですな、お絹殿──。いや、以前は卯木殿とお呼びしたか。此度は改めて。渡辺源一郎と申す」
お絹は正座のまま、一度深く頭を下げた。
「……お絹、と申します。此度は兄がお世話になりました」
低く、だが澄んだ声だった。素っ気なく、余計な感情を載せまいとする話し方。源一郎がお絹の声を聞くのは、これが初めてだった。火盗改の牢に入れていた時も、牢から出た時であっても、この女は一言たりとも口を利かなかったのだから。
──反応が返ってきたことは良い。だが、それよりも気にかかることがあった。
源一郎が目を細める。火盗改の牢で見た時の面影と比べると──明らかに痩せていた。頬がこけ、顎の線が鋭くなっている。男物の小袖に隠されてはいるが、手首の細さも目立つ。切れ長の目元には薄い隈が刻まれ、肌の血色もあまり良くない。
あの時も細身に見えたが、今は輪をかけて痩身であった。まるで内側から削り取られているかのような──。
神谷が言っていた。盗賊団への潜入任務の後、障りが酷くなったと。その言葉が今、目の前の姿と重なる。猫憑きの障りがお絹の身を蝕んでいるのだと─。
「……山王祭の折は色々とあったが、今日は与力としてではなく、兄上殿の頼みを受けてお会いしている。互いに思うところはあるだろうが……此方は身構えることはしないつもりだ。どうか楽にしてくれ」
お絹は小さく頷いた。だが体の強張りはそのまま。
そうそう簡単に警戒は解けないだろう──。源一郎はそれを見て、すぐに本題に入ることを避けた。代わりに神谷に向けて、世間話を始めた。秋の気候のこと、本所の武家地の静かなこと、神田の誠道館のこと。先日の捕り物の顛末。辰蔵のこと。源一郎が穏やかに話を振り、神谷がそれに応じる。
お絹は殆ど口を利かなかったが、兄と源一郎のやり取りを注意深く聞いていた。二人の間に流れる空気は──悪くない。源一郎という男は、あの夜に纏っていた凄みが嘘のように消え、どこにでもいる武士に見えた。語り口は柔らかく、しかし浅薄ではない。普段、演じている兄とは違う種類の落ち着きがある。
お絹の肩から、少しずつ──ほんの少しずつ、力みが抜けていった。
茶が二杯目に替わった。おたかが静かに差し替えて下がる。そこで、源一郎が、ふと声の調子を変えた。
「──神谷殿。改めて言うておくが」
穏やかだが、先ほどまでの雑談とは明らかに違う重さがあった。
「先日、貴殿は俺に妹御のことを打ち明けてくれた。──猫憑きの家系であること。妹御に人には見えぬものが見えること。その障りに苦しんでおられること。それらを話すのに、どれほどの覚悟がいったかは想像を絶するものであろう」
神谷が少し驚いた顔をした。
「俺もまた、人に話せば狂人扱いされるものを抱えて生きてきた。だから──貴殿が俺を頼ったことを、裏切る気はない。お絹殿や御家の秘密は、この屋敷の外には漏らさない。それだけは、あらかじめ約束しておく」
神谷は暫く黙っていた。それから──深く、頭を下げた。
「……かたじけない」
お絹もまた、兄の横で小さく頭を下げた。その仕草はまだ硬かったが──目の奥にあった警戒の色が、僅かに和らいだように見えた。しかし、その代わりに困惑の念も浮かんでもいる。どうしてそこまでするのか──と。
源一郎はお絹に向き直った。
「お絹殿に一つ、訊いてもよいだろうか」
お絹の目が源一郎に向いた。
「兄上殿から、お絹殿は人には見えぬものが見えると伺っている」
お絹は微動だにしない。動揺も不快感も、何も反応はない。
「それについて、詳しく話せとは言わん。ただ──今、この座敷の中で何か見えているものがあれば教えてほしい──」
源一郎は静かに、お絹にそう問いかけた。




