第九十一話
秋の朝は空が高い──。雲一つない青空に鳶が旋回し、本所の武家地には柔らかな日差しが落ちていた。
その通りを、二人連れが歩いている。
一人は体格の良い浪人風の男。飾り気のない紺の着流しに、腰には大小の刀。顔立ちは人懐こいが、その目の奥には常人にはない鋭さが潜んでいる。その男こそ神谷伝兵衛であった。
もう一人は──神谷と並んでも見劣りしない、すらりと背の高い若侍だった。白の小袖に茶の袴、総髪を一つに束ねて流している。笠を目深に被っているが、その下から覗く面は白く、鼻筋が通り、切れ長の目は涼しげで──男にしては美しすぎた。すれ違う町娘が、思わず振り返るほどの美男子。
お絹──卯木の名で御庭番の密偵を務めていた神谷の妹である。今日は兄の勧めで男装し、若侍に扮していた。女だと知らなければ、気づく者はまずいまい。背丈が兄と変わらぬほどに高いことも、この扮装を成り立たせていた。
二人は武家地の土塀が続く道を北へ歩いていた。本所の武家屋敷は土塀や板塀で囲われ、塀は高く、向こう側の様子を窺い知ることはできない。人通りはほとんどなく寂しげ──。しかし、武家地とはそういう場所だ。たまに中間が使い走りをしているのを見かける程度で、静まり返った通りには二人の足音だけが響いている。
「……この辺りの筈だが」
神谷が呟いた。渡辺家の屋敷には、以前二度ほど、様子見であればそれ以上に足を運んでいる。場所は頭に入っている筈だった。掘割に沿って歩き、途中の角を曲がり、次の辻を右に行った先の通り──そこに渡辺家の門がある。
だが──見つからない。
角を曲がった先には、見覚えのない小路が続いているだけだった。
「……」
神谷は足を止めた。おかしい。ここで間違いなかった筈だ。掘割の位置、辻の形──記憶と一致している。だが、目的の屋敷だけがどこにもない。
「──兄上?」
お絹が低い声で問うた。女の声を隠すため、意識して声を落としている。その口調は素っ気なく、どこか不機嫌にも聞こえるが、これがお絹の常でもあった。
「どうされたのです。立ち止まって」
「いや、おかしいのだ……渡辺殿の屋敷がある筈の場所に、屋敷がない」
「単に場所を間違えたのでは」
「間違えてなどおらんわ。この掘割、この辻──確かに覚えている。だが……」
神谷は引き返すことにした。掘割まで戻り、もう一度辿り直す。途中、小さな稲荷の祠の前を通り過ぎた。朱塗りの鳥居に狐の像。武家地には屋敷稲荷が多く、辻ごとに見かけるのはさして珍しいことでもない。
角を曲がる。高い板塀が続く。四つ辻を曲がる──。
行き止まり。だた小さな稲荷の祠があった。先ほど見たのとはまた別の、朱塗りの鳥居。
「…………」
神谷は眉を顰めた。どうにも辿り着けない。やはり記憶違いなのか──いや、同じ道を通った筈なのに、先ほどとはまた別の道に出ている。方向感覚が狂ってしまったのか。
「兄上」
「分かっている」
神谷の声に、苛立ちが滲んだ。御庭番として方向感覚には自負がある。暗闇の中でも目標に辿り着ける訓練を積んできた。それが──白昼に、武家地の平坦な道で迷わされている。
三度目。今度は大きく迂回し、町人地を突っ切って裏手から目的地に回り込むことを試みた。一端、武家地を抜け、掘割に架かる小橋を渡り、長屋が並ぶ路地を抜け、反対側から武家地に再び入る。寂れた小路を進み、一本松が立つ辻を曲がる──。
目の前に、朱塗りの鳥居。稲荷の社が現れた。
「…………」
神谷は黙って立ち尽くした。額に薄く汗が浮かんでいる。今度は苛立ちではない。これは──困惑だった。何が起きているのか、理解できないという。
お絹は笠の奥から周囲を見回していた。その目には──兄とも異なる色がある。困惑ではなく、警戒。皮膚を何かが撫でるような、落ち着かない感覚。猫憑きの感覚が、異変に対して敏感に反応していた。
今日は調子の良い日だった。目眩もなく、頭も澄んでいる。だが──歩いている途中で空気が変わる奇妙な感覚がしていた。何がどう変わったのかは言葉にできない。ただ、身体が微妙な変化を伝えている。ここには何かがあると。
「──兄上。一度、離れましょう」
お絹が静かに言った。
「このまま続けても同じことの繰り返しです」
「…………ああ。そうだな」
神谷は素直に頷いた。無理に進んでも堂々巡りだ。一度距離を取り、考え直す必要がある。
「少し戻った所に茶屋があった筈だ。そこで休もう」
二人は来た道を引き返した。武家地を抜け、町人地との境にある小さな茶屋に入る。床几に腰を下ろし、茶屋の娘が持ってきた麦湯を受け取った。
お絹はと言えば──笠を取らず、麦湯を静かに啜っていた。その姿は若侍として、不自然のない所作。ただ、その目だけが──笠の奥で、落ち着きなく周囲を警戒していた。
「……何が起きているのだろうな」
神谷が低く呟いた。腕を組み、麦湯に目を落としている。
「道順が間違っているわけではない。方角も正しい。だが、渡辺殿の屋敷だけが──在るべき場所にない。まるで、あの一画だけ道が消えてしまったかのようだ」
「……」
お絹は答えなかった。いや、答える言葉を持っていなかった。自分に憑いた──赤毛の猫が何かを感じ取っている。それは確かだ。だが、それが何なのか、お絹自身にも分からない。お絹はただ人でないモノが見える目を持っているだけ。しかも、見えるものから目を背け、聞こえるものに耳を塞いで生きてきた。神谷の疑問に対する答えなど持ち合わせていない。
──渡辺源一郎。
その名を思い浮かべるだけで、お絹の身体が僅かに緊張で強張る。山王祭の夜──盗賊団に潜入していた自分を捕らえたあの男。火盗改の牢において──、一言も口を利かず、鋭い目で睨み続けていたのはお絹の方だった。なのに拷問にかけられることもなかった。妙な男だった。
しかし、まさかあの男の所へ出向くことになるとは思いもしなかった。妹に光明を見せてほしいという兄の願い──。だが、お絹自身の心はまだ、あの夜の畏れを覚えている。絶対の自信を持っていた弓術が完封され、為す術なく打ち倒された強烈な記憶と、まるで人とは思えない圧を纏っていた姿を。
僅かな緊張を解すように麦湯を一口啜った。
「──カカカ。そこな、お二人。どうなされた。まるで、狐につままれたような顔をしておる。道にでも迷われたかな?」
不意に、隣の床几から声がかかった。
神谷が反射的に振り向いた。──そこには、一人の修験者が座っている。いつの間にそこにいたのか。先ほどまで、そこの床几には誰もいなかった筈だったのに。
鈴懸を纏い、結袈裟を掛けた山伏の姿。年の頃は四十前後に見えるが、体つきは壮健で、日に焼けた顔には精気が漲っている。傍らには金剛杖が立てかけられ、遊環が微かに揺れている。背丈はさほど高くはないが、座っているだけで妙な存在感があった。野趣に富んだ面構えの中に、人を食ったような笑みが浮かんでいる。
──いつからいた。
神谷の中で御庭番としての警戒が一瞬で跳ね上がった。人の気配を察知することにかけては、並の者ではない自負がある。だが、この男がいつ座ったのか、全く気がつかなかった。
お絹も同様だった。笠の奥の目が修験者を射抜くように見つめている。
「何を驚かれている。まずは落ち着きなされ」
修験者は悠然と麦湯を啜りながら言った。まるで、二人の警戒など歯牙にもかけていない様子で。
「……私たちに何用だ。辻祈祷ならば間に合っている」
「そのつもりならば、もっと上手く声を掛けるよ。──お二人とも。渡辺源一郎の屋敷を探しておったのだろう?」
神谷の目が鋭くなった。
「……何故、それを」
「そう身構えるな。俺は怪しい者ではない。──いや、見た目はこのなりだから怪しく見えるだろうが。まぁ、そんなことはどうでもいい──。お主らが同じ場所を、ぐるぐるぐるぐる回っているのを見てな、面白そうだと声をかけた」
通りに神谷とお絹以外の人影はなかった。いったいどこで見ていたというのか──修験者はカラカラと笑い、それから神谷をじっと見た。
「お前さん──柳生の遣い手だな。いや、直心影流も混ざっておるか。腰の据わり方で分かる。中々の腕前と見た」
神谷が僅かに目を見張った。座っているだけで自身の修めた流派を見抜かれた。この修験者──只者ではない。
「そちらの若侍殿は──」
修験者の目がお絹に向いた。鼻が一瞬、かすかにひくついた。
「……ふむ。面白い匂いがするな。まあ、それは追々のこととしよう」
お絹の肩が強張った。何を嗅取ったというのか。女の匂いか──あるいは、他の物か。お絹は笠を深く被り直し、視線を逸らした。
「名を聞いても構わないだろうか」
神谷が問うた。声は穏やかだが、全身の神経が張り詰めている。
「なに、大した者ではない。渡辺の坊主とは古い馴染みでな──あやつの師のようなものだ」
修験者は麦湯を飲み干して立ち上がった。神谷よりも背は低い。だが、その動作には一切の無駄がなく、幾つもの山を踏み歩いてきた者だけが持つ重心の安定感があった。
「如何にしても辿り着けず、不思議であったろう?お前さんたちが辿り着けなかったのはな──あの屋敷に張られた結界のせいよ」
「結界……?」
神谷が眉を寄せた。聞き慣れない──いや、儀礼や儀式、呪術にかかわる言葉としては知っていた。
「最近、屋敷に豊川稲荷の分霊を勧請したようでな。その折に御使いの狐が棲みついた。屋敷周りに狐が結界を張っておるのだ。害意のある者や、屋敷の住人に対して強い警戒を抱いておる者は、道を逸らされて辿り着くことはできぬ」
お絹の指が膝の上で微かに反応した。害意はない──だが、警戒心なら山ほどある。火盗改の与力。あの夜、自分を捕らえた男。その記憶が霊猫の本能と絡み合っているのか、心身が警戒して止むことがない。
──それが、結界に弾かれた原因なのか。
修験者はお絹の方を見た。その目は笑っているが、見透かすような深さがある。
「案ずるな。お前さんらが悪意を持っているわけではないことは分かっておる。ただ、狐というのは案外融通の利かん生き物でな。敵か味方かの二択しか持ち合わせておらん。お前さんの中の警戒心が、狐には敵意と映ったのだろうよ」
お絹は何も答えなかった。笠の奥で唇を噛み、目の前の修験者を警戒する。
「──どれ、俺が屋敷まで手引きしてやろう。ついて来い」
俊源坊は金剛杖を取り上げた。
一瞬の間──神谷はお絹と目を交わした。お絹は僅かに顎を引いた──行く、という意思表示。このまま堂々巡りを繰り返しても仕方がないことは、二人とも分かっていた。
「……承知した。案内を頼む」
神谷が頷くと、修験者は大股で歩き出した。二人がその後に続く。
先ほどと同じ道を行く。武家地の土塀が連なる通り。掘割に沿い、辻を曲がろうとする──全く同じ道筋だった。
だが──辻を曲がる前に修験者が金剛杖で一つ、とつ、と地面を突いた。杖に付いた遊環が、しゃらん、と澄んだ音を立てる。
空気が変わった気がした──。曇りが晴れたような、目から鱗が落ちたような、はたまた意識が切り替わるような感覚。
それまで何度歩いても同じ景色しか見えなかった通りの先には、先ほどとは別の光景が現れていた。視線の先──並ぶ板塀の間に、これまでなかった小路が口を開けている。
お絹は息を呑んだ。それは兄である神谷も同様。
しかし、修験者は振り返りもせず、その小路を進んでいく。二人が後に続く。静かな小路──。高い板塀の向こうに、紅葉しかかっているハウチハカエデが見えた。
そして──。
板塀に囲まれた武家屋敷。門に施された渡辺の家紋──三星の紋。先ほどまで何度歩いてもなかった屋敷が、最初からそこにあったかのように建っていた。
「──渡辺星。ここが……」
渡辺姓の者が独占的に使用している家紋を見て、お絹が思わず声を漏らした。男の声を装うことも忘れ、素の声が出ている。神谷が一瞬、咎めるように目を向けたが、お絹は気づかなかった。突然現れた屋敷を前に、目を見開いて驚いている。
「さて、着いたぞ」
修験者は門の前で立ち止まり、振り返った。
「言い忘れておったが──俺は高尾山薬王院の俊源坊という。今は、この屋敷に滞在中でな。さ、遠慮なく入るといい」
そう言って、修験者──俊源坊は門をくぐった。まるで自分の家であるかのように、堂々とした態度で。
神谷とお絹は一瞬、顔を見合わせた。お絹の目には──まだ警戒の色が残っている。だが、その奥には猫に似た気質とでもいうのか、僅かな好奇心のようなものも覗いていた。
兄である神谷が先に足を踏み出した。お絹は一つ息を吸い──覚悟を決めたように、その後に続いたのだった。




