第九十三話
向けられた問いに、お絹は暫く黙っていた。素顔は無表情を装っているが、その奥で何かが揺れている。
今日の体調は悪くはなかった──。しかし、この屋敷に入ってから、断続的に頭の奥が鈍く重い痛みで疼いていた。人でないものが近くにいる時に起こる、憑き物の障り。大人になる前からずっと付き纏ってきた厄介な体質だ。
見えてしまう。見たくなくとも、見えてしまう。視界の端に揺らめくものが幾つもあった。見る度に頭が軋む。だから──なるべく目を向けないようにしていた。
「お絹、何か見えるか?」
お絹の兄である神谷伝兵衛が、再度訊いた。
昔は見えたままのことを口にしていた──。知らなかった隠れた世。目には見えない不思議な者達が世にはいる。私にはそれが見えるのだと、家族に、父親に、奉公人に話したことがあった。
だが、返ってきた反応は──気味が悪い、頭のおかしな子だというもの。父親はお絹に猫憑きめと吐き捨て、周囲の目は日に日に冷たく無機質になっていった。その中で──兄と母だけが彼女を最後まで見捨てないでいてくれた。
だから──兄と母に迷惑を掛けたくなくて、目には見えないナニカの存在を人に話すのはやめた。話したところで障りが消えるわけでもないのだから。
「──何も」
お絹が短く答えた。
嘘だった。何もないわけがない。この屋敷に足を踏み入れた時から、頭の奥がずっと疼いている。ここには、いる。一つや二つではない。もっとたくさんのナニカ、が。
兄は、この源一郎という男が人でないものを見ると言っていた。それは既に聞いた話だ。しかし、聞いてはいるが──言葉だけで信用するほど、お絹は人を簡単に信じられなくなっていた。
源一郎はお絹の短い返答に対し、小さく頷いた。
「そうか。では、もう一つだけ。──お絹殿から見て左側に座っている、赤毛の大きな猫。その猫に名前が付けてあるのか訊いてもいいか?」
座敷の空気が止まった。お絹が──その問いに硬直する。
赤毛の猫。お絹に憑いているもの。お絹はその猫に密かに名前を付けていた。『アカ』と──。
ちらりと傍らに視線を向ける。左側に、と源一郎は言った。位置は合っている。だが、それだけでは分からない。兄から何か聞いたのかもしれない。当てずっぽうを言っているのかもしれない。
──確かめなければ。この男が本当に私と同じものが見えているのかどうか、自分の目で。
「……」
お絹は答えなかった。答えずに、待った。対して、源一郎は急かさない。沈黙をそのままに、ただ穏やかに続ける。
「赤い毛並みの大きな猫だ。それに尾が二つ。力のある猫なんだろう。今、お絹殿の左側に座って、俺のことを不機嫌そうに睨んでいる。俺は何もしていないのだがな……──だが、なかなか立派な猫だ」
お絹の指先が微かに動いた。膝の上に置いた手に、僅かに力が籠もる。尾が二つ──。睨むというのも正しい。アカは警戒心が強いのだ。心臓が一つ、大きく鳴る。
そのまま源一郎は続けた。
「──実はな。以前にも、その猫を見たことがある」
顔を上げた。お絹の視線が源一郎のものと合わさった。
「お絹殿が牢に捕らわれていた頃のことだ。ある日、屋根の上で猫が香箱座りをしているのを見つけてな。赤い毛並みに金色の目。随分と大きな猫だと驚いた。餌で釣って呼んでみたが、屋根の上からじっと見下ろすばかりで動こうとしなかった」
同心たちに見られてしまった。アレは失敗だったな、と源一郎が苦い顔で言う。
「あの時分は、どこぞの裕福な屋敷で飼われている、お猫様かとも思ったのだがな。──思えば、お絹殿が引き取られた後、ぱったり姿を消した」
お絹は黙ったまま、源一郎の顔を見ていた。その目は相変わらず警戒の色を帯びていたが──興味を持っている目でもある。
「だから、今ここでお絹殿の傍にいるのを見て──ああ、あの時の猫かと。合点がいった。まぁ、それだけのことなのだが」
お絹は何も言わなかった。喉の奥が詰まって、声にならなかった。だが──膝の上の拳が、ぎゅっと固まっている。
見えている。──この男には、本当に見えているのだ。その事実が静かに胸の内に落ちる。小石が水底に沈むように。ゆっくりと、音もなく。
「別に人に知られたくないのなら、それでもいい。だが、もし見えていて、自分がおかしいと思っているのなら、それは間違いだ。お絹殿が見えているものは、俺にも見える。確かにそこにあるものなのだから」
簡素な言葉だった。飾りもなければ、慰めの色もない。ただ事実を述べたに過ぎない──そういう口調だった。
お絹は答えなかった。ただ──源一郎の言葉が、土に染みる雨水のようにゆっくりと胸の奥に沁みていくのを止められない。
その時だった──。
座敷の襖が、すっと開く。
そこに小さな女の子が立っていた。黒い着物に異様に白い肌。年の頃は七つか八つ──表情は乏しいが、その目だけはきらきらと輝いているのが印象的だった。
頭痛が強くなる。こめかみの奥を押されるような痛み。人でないもの──それも、これまでとは比べものにならないほど近い。
──子供……?
お絹は痛むこめかみを押さえ、目を細めた。この屋敷に子供がいるとは聞いていない。それに、この女の子は──何かがおかしかった。人のようでいて、人ではないものの気配がする。
当の女の子の視線は、お絹にも源一郎にも向いてはいなかった。見つめているのは、ただ一点──お絹の傍らに座る、赤毛の大きな猫。
「──ねこ。大きい赤いねこ」
女の子は無表情のまま、だが目をきらきらと輝かせて、トトト、と駆けるように座敷に入ってきた。真っ直ぐに、お絹の傍──赤毛の猫の方へと向かう。
お絹は身を強張らせた。近づいてくる。頭痛がさらに強くなる。
対して、兄は訝しむ──頭を押さえ、眉を蹙めるお絹に、障りが出ていることに気づいたせいだ。襖が一人でに開いたのは分かったが、そこに誰かがいる様子もない。しかし、妹と源一郎の視線が一点を捉えて動いていたことで、そこに何かがいるのだと理解した。自分には見えない何かが。
「さわっていい?」
源一郎とお絹だけに聞こえる声。女の子はお絹ではなく、猫の方に訊いていた。
赤毛の猫は、暫し女の子を見つめていた。金色の目が、小さな影を値踏みするように細まる。──それから、ゆっくりと目を閉じた。喉の奥で、低いゴロゴロという音が鳴り始める。
「いいの──?ほわぁ。ふわふわ。前に会った猫より、もっとふわふわ」
女の子が猫の背に手を置いた。無表情のまま、だが撫でる手つきは明らかに嬉しそうだ。猫は目を細め、女の子の小さな手に身を委ねていた。
──その瞬間だった。
頭痛が、止まった。
ぴたり、と。まるで水面が凪いだように、鈍い痛みが唐突に沈黙した。あれほど強くなる一方だった障りが──女の子が猫に触れた途端、嘘のように鳴りを潜めた。
──え?
お絹はこめかみに当てていた手を、そろりと下ろした。痛みがない。こめかみの奥で脈打っていた疼きが、跡形もなく消えている。
どういうことなのか。この屋敷に足を踏み入れてからずっと、片時も途絶えなかった障りが──。
戸惑いながら女の子を見た。女の子は何も気にしていない。ただ無心にアカを撫でているだけだ。アカも気持ちよさそうに喉を鳴らし、女の子の小さな手に身を委ねている。
お絹は呼吸をすることすら忘れていた。
頭痛のことだけではない。自分にだけ見えていた猫──アカを女の子が撫でている。見て、触れている。そして、触れられることをアカも嫌がっていない。
「菖蒲──あまり急に出てくると客人が驚くだろう」
源一郎が苦笑しながら嗜めた。しかし、当の女の子は猫を撫でるのに夢中で、源一郎の言葉など聞こえていないようだった。
「……この、女の子は……?」
お絹は自分でも驚くほど掠れた声で訊いていた。
「ああ。彼女は──菖蒲という。この屋敷に昔から棲んでいる。まぁ、見ての通り人ではないがな」
源一郎が静かに答えた。──見ての通り、と。まるでそれが当たり前のことであるかのように。
菖蒲。人ではない──。しかし、幻などでもない。お絹は菖蒲を観察した。アカを撫でる小さな女の子。人のようでいて人ではない。異様に白い肌は現実感が薄く、人にしては違和感が強い。
やはり同じ物が見えている。この源一郎という男にも。この屋敷では──人ではないものが見えることは、おかしなことではないのだ。
「そう……」
ふと、体から力が抜ける。重い肩の荷が下りたような安堵感──。自分は壊れているのではなかった。見えているものは、まやかしではなかった。兄が確かめてほしいと言った意味が、今、ようやく分かった。
──自分が見ていたものは紛れもない現実だということだ。自分は狂ってなどいなかった。気狂いやら、気が触れたなどと言っていた奴らの方が間違っていたのだと。
過去に受けた屈辱。侮蔑に、嘲弄。父親の見下す視線。それらに耐えて、耐えて、耐えて。しかし、それを思い出して怒りと苛立ちで気が狂いそうになることもあった。否定され、抑圧され、人とは異なる自身が全て悪いのだと思っていた。お前は気狂いなのだと。本来ならば座敷牢にでも入れておくべき存在なのだと。ことあるごとに言われ、そう思わされてきた。
──だが、本当に間違っていたのは自分自身ではない。間違っていたのは父親や侮蔑を向けた者達の方。
不意に、視界が滲んだ。
お絹は最初、それが何なのか分からなかった。目が疲れたのかとも思った。だが──頬を何かが伝った。膝の上に小さな雫が落ち、着物の布地に染みを作る。
──水?
お絹は驚いて頬を拭った。だが、拭った指先が濡れていて──そこでようやく、自分が泣いていることを理解した。
どうして泣いていたのか分からなかった。悲しくはない。感動したわけでもない。ただ──ずっと張り詰めていた糸が、知らぬ間に一本、ほどけたような。そんな感覚に近い。
拭っても拭っても、新しい雫が落ちる。嗚咽もない静かな落涙──。
感情が薄いと思っていた妹の涙。驚いた兄が手を伸ばしかけ、止めた。
源一郎もまた、何も言わなかった。いや、関わりのごく薄い人間には掛ける言葉が見つからなかったというのが正しい。
──その時、また廊下から静かな足音がして、縁側廊下に面した別の障子戸が開いた。若い女中が茶の替えを載せた盆を手に入ってきたのだ。
女中は座敷の光景を目にして一瞬、動きを止め──。
「あれ、珍しい……菖蒲様が日の高い内に姿を見せるなんて……」
女中がポツリと呟く。その呟きにお絹がハッとした様子で視線を上げ、二人の女の目が合った。
女中はすぐに客人であるお絹から視線を逸らし、口をつぐむ。それから静かに盆を置くと、何ごともなかったかのように、お絹の前に茶を差し出した。
「どうぞ。温かいうちに」
「……」
柔らかな声だった。それ以上は何も言わない。涙する理由も、何も訊かない。お絹は迷った。逆に、女中の先ほどの反応について訊いてもよいものか。微かに震える手で茶碗を受け取る。温かかった。器越しに伝わる熱が、掌から少しずつ体の内側に沁みていく。
──温かい。ただ、それだけのことが。
涙はまだ止まっていなかった。だが、茶碗を両手で包み込んでいると──頭の痛みが消えていることを、改めて不思議に思った。この屋敷に来てから一度も止まなかった障りが、今は嘘のように静か。菖蒲と呼ばれた女の子がアカを撫でているからなのか。それとも──。
理由は分からなかった。だが、頭が痛くないというだけで、自身が気狂いでないと思えただけで──こんなにも気が楽になるのだと、初めて知ることができたのだった。




