第九十七話
数日後──。
源一郎は本所の屋敷を出て、赤坂へと向かった。
秋の朝は空気が澄んでいる。両国橋を渡り、日本橋を抜け、虎ノ門を過ぎて赤坂へ。道中の町並みはすっかり秋の装いに変わっていた。軒先に干し柿が吊るされ、八百屋には里芋や栗が並ぶ。物売りの声は活気に満ちていたが、夏の暑苦しさはない。
懐には両国の豆腐屋で買い求めた上等の油揚げと、おたかに持たせてもらった稲荷寿司。それから灘の酒──未来においては最も有名メーカーの一つとなった蔵の一本。灰狐の助言通り、供物は手を抜かなかった。
赤坂一ツ木の豊川稲荷に着いたのは、巳の刻を少し回った頃だった。
境内は静かだった。秋の陽光が木々の間から差し込み、朱塗りの鳥居が連なる参道に斑模様の影を落としている。夏の盛りに訪れた時は蝉しぐれが耳を聾するほどだったが、今は虫の音もまだ控えめな時刻で、木の葉が風に揺れる乾いた音だけが響いていた。
参道を進む。左右に並ぶ狛狐の石像が、朝の光の中で静かにこちらを見つめている。その奥──奥の院の社堂の前で、源一郎は足を止めた。
「失礼いたす」
一礼し、供物を社の前に並べた。油揚げ、稲荷寿司、酒。丁寧に包みを開き、皿に盛る。
──そのまま暫く待った。
秋風が参道を抜け、幟がはためく。落ち葉が石畳を転がり、どこかで烏が一声鳴いた。
──やがて。
社堂の軒の影が動いた。
白い毛並みが、陽の光を受けて銀に輝く。三本の尾を優雅に揺らしながら、白狐がゆっくりと姿を現した。人の子供ほどの大きさ。金色の瞳が、源一郎を見据える。
「おや、渡辺殿。先日以来ですね」
白狐が目を細めた。鼻をひくひくとさせ、供物の匂いを嗅ぐ。
「──いつもの油揚げ。それに稲荷寿司に酒。今日もまた、良い匂いですね」
三本の尾がゆらゆらと揺れる。狐の表情は分かりにくいが、機嫌は悪くなさそうだった。
「ご無沙汰しております。勧請の折には大変お世話になりました」
「お前さんはいつも律儀だねえ。まあ、それが良いところなのだけれど」
白狐は社の前にふわりと座り、油揚げに鼻を近づけた。一口齧る。赤い舌が覗き、尾がふらふらと揺れた。
「あぁ……やっぱり美味しい。この店の油揚げは格別だ。他の油揚げでは満足できなくなってしまう。ウチを祀ってくれたら、商売繁盛を約束するのにねぇ」
「それは豆腐屋にとっては光栄なことですな」
「ふふ。──それで?」
冗談めかした白狐は、油揚げを齧りながら金色の目を源一郎に向けた。神使の目──穏やかだが、全てを見透かすような深さがある。
「御礼参りの意味合いはあるとしても、こうして心尽くしの供物をたんまり持ってきたのです。ただの挨拶ではないでしょうねぇ」
「それは申し訳ない──。灰狐殿からお伝えしたかと思いますが……猫の件で、ご相談に上がりました」
「ふふ、冗談です。無論のこと聞いていますよ。猫神に憑かれている女がいると。渡辺殿も次から次に厄介ごとが降り掛かる」
白狐の声が少しだけ変わった。揶揄うような調子から、神使としての響きに移ってゆく。
「灰狐から聞いた限りでは、件の女は紀州の口寄せ巫女の家系で、祀りが途絶えた今も蠱が代々の血に宿り続けているとか。それが二尾の赤毛の猫として顕れている。──高尾山の天狗の見立てだそうですね」
「はい。屋敷に逗留している私の師──俊源坊が、そう申しておりました」
「渡辺殿も中々侮れない繋がりを持っているようで。灰狐がずいぶんと怯えていたけれど──まあ、それはいい」
白狐はくつくつと笑った。それから、油揚げの二口目を齧り、一拍置いて言った。
「正直に申し上げましょうか」
「お願いします」
「猫は、稲荷の領分ではないよ」
白狐の声は穏やかだったが、はっきりとしていた。
「私は豊川稲荷の神使。吒枳尼真天に仕える眷属──狐のことならば、教え導くことはできる。お鈴さんの御先狐を預かったのも、同じ狐の筋だったから。でだけど……猫は狐ではない。ましてや蠱術由来の猫神ともなれば、稲荷の言葉が通じるかどうかも分からない」
源一郎は黙って聞いていた。予想通りの答えだった。灰狐が「難しい」と言った通り。
「でもまぁ──」
白狐は油揚げを置いた。
「灰狐からもう一つ聞いたよ。天狗が言ったそうだね。猫は狐のおばであると。猫と狐は古い縁を持つ仲だと」
「はい」
「それもまた事実」
白狐の三本の尾が、ゆっくりと広がった。
「私たち狐にも古い記憶がある。猫と出会い、遊び、山を歩いた記憶。人の世を教わり、狐が猫に化け方を教えた。そういう遠い昔の話がね。──だから、猫の事情に全く興味がないと言えば嘘になる」
源一郎は僅かに目を見開いた。
「……では」
「勘違いしてはいけないよ。引き受けると言っているのではない。ただ、話を聞いてやってもいいとは思っている。──その猫持ちの女を、今度連れてきなさい。私が直に見よう。その上で、できることがあるのか、ないのか、判断しましょう」
「……ありがとうございます」
源一郎は深く頭を下げた。白狐は鼻を鳴らした。
「礼をするにはまだ早い。何もしていないのだから。──ところで、渡辺殿」
「はい」
「灰狐から伝えさせたかと思いますが──実は、私の方からもお前さんに話があったのですよ」
白狐の声が変わった。穏やかさの底に、苛立ちに近いものが滲む。三本の尾の揺れが止まり、金色の目が鋭くなった。
「お前さんは幕府の役人でしたね」
「はい、末端ですが……」
「人間の悪事を取り締まるのが、お前さんの務め」
「何かあったのですか?」
「えぇ、ええ。──どうにも困ったことが起きているのですよ」
白狐は社の前で姿勢を正した。三本の尾を体の周りに巻くようにして座り直す。その姿は、もう油揚げを喜ぶ狐ではなかった。豊川稲荷の神使としての──信仰を守護する威厳を纏った姿だった。
「この界隈、豊川稲荷の信者の屋敷がどれほどあるのかご存知ですか」
「赤坂から京橋、日本橋にかけての商家や芝居小屋、吉原を筆頭とした花街……豊川稲荷を信仰している家は、それこそ数えきれぬほどありましょう」
「その通り。長年にわたって真っ当に信仰を続けてくれている家々です。供物を欠かさず、祠を掃き清め、稲荷の教えを守っている。──しかし、そういう家々が今、荒らされています」
「荒らされている……?」
「怪しげな祈祷師連中が出入りしているのですよ」




