第九十六話
踵を返した源一郎は、庭に面した縁側を通り過ぎ、そのまま庭の奥へと足を向けた。
秋の日差しはもう西に傾いている──陽を受けて仄かに朱く光る鳥居は、静かにそこに佇んでいた。
──白狐殿に繋ぎを取ると約束した。まずは灰狐殿に話を通す必要がある。
源一郎が庭を歩く。秋の庭は静かだった。萩の枝が風に揺れ、こぼれた花弁が苔の上に散っている。石灯籠の脇を通り、飛び石を踏んで奥へと進む。庭木の影が長く伸び、西日が梢の間から斜めに差し込んでいた。
──祠は庭の片隅にあった。
朱塗りの小さな鳥居。その奥に木造りの祠が据えられ、両脇に小さな狐の像が鎮座している。豊川稲荷の分霊を勧請した折に建てたもので、灰狐はここを守っていた。
祠の周りは掃き清められ、供物台には小さな皿が置かれている。お鈴が毎朝油揚げを供えている皿だったが、今は空になっている。
「灰狐殿。──いるか」
声をかけた。
──返事がない。
普段なら、すぐに姿を見せるか、少なくとも気配で応じる。あの飄々とした灰色の狐が沈黙しているのは珍しかった。
「灰狐殿?」
もう一度呼ぶ。祠の裏の影が微かに揺れた気がしたが、姿は中々見えない。
源一郎は思い当たった。師の存在──天狗だ。
菖蒲が言っていた。「天狗は山の支配者。狐にとっては、遥か上の存在。びくびくしてる」と。思えば俊源坊が逗留を始めた頃から、灰狐は狐塚からあまり出てこなくなっていた。源一郎は至極軽く捉えていたが──天狗の気配が屋敷に満ちている限り、狐にとっては落ち着くことはないのだろう。
「師匠なら台所にいる。おたかに夕餉の催促しているところだろう。こちらには来ない」
そう言い添えると、暫しの間があった。それから──祠の裏から、灰色の毛並みがおずおずと覗いた。
黒みがかった灰色の毛に金色の目。尾は一本だが、先端が二股に分かれている──恐らくは、お鈴の身の内に潜むものと同じ、御先狐と呼ばれる存在。灰狐は祠の陰から身を半分だけ出し庭の方を窺った。
「鬼切殿……本当に、あの方はこちらには来られませんか」
声がいつもより小さい。飄々とした物腰は影を潜め、耳がぺたりとしている。
「来ない。秋刀魚が焼けたら食って、離れで寝る。師も此処が豊川稲荷の領域だと分かっている。わざわざ此処には来ないだろう」
「……左様ですか」
灰狐は慎重に祠から出てきたが、それでも台所の方角に耳をぴくぴくと動かしている。俊源坊の「おう、美味そうな良い匂いがしてきたぞ!」という大声が聞こえると、灰狐はびくりと肩を竦めた。
「……あの方が逗留されてから、碌に眠れた日がございません。山の気と申しますか、あの方の存在そのものが──その、圧がですね。四方八方からひしひしと感じるのですよ」
「……すまんな」
「いえ、鬼切殿のお師匠様ですから、文句を申すつもりは毛頭ございませんが──ただ、あの方が笑い声を上げるだけ驚いてしまうのは、如何ともし難く……」
「恐ろしい……天狗は事もなげに狐を使役しますから……」と言い、灰狐が尾を体に巻きつけるようにして座る。源一郎は苦笑した。普段は商人のような如才ない物腰で、こちらの出方を量りながら話す狐だ。その灰狐がここまで萎縮している姿は、少々可笑しくもあり気の毒でもある。
「──灰狐殿。実は相談があるのだ」
源一郎は切り出した。灰狐の片耳がぴんと立った。難儀していても話を聞く構えにすぐ戻るあたりは、流石に白狐の配下だけのことはあった。
「今日、客人が来ていたのは気づいていたと思うが」
「ええ。結界に引っかかっていた方々ですね。かの方が上手く手引きをされたようですが──」
やはり把握していた。灰狐は祠周辺の状況は把握している。結界のことも誰が通り誰が弾かれたか、全てが分かっているのだろう。
「客人の一人──お絹殿という女だが、猫が憑いていてな。赤毛の大きな猫で、尾が二股に割れている。師に見てもらったところ、紀州の猫神を祀る巫女の家系──蠱術を由来とするものだろうと。ただ……祀りが途絶えてしまっているため、障りが出ているようなのだ」
灰狐は黙って聞いていた。金色の目が思案げに細められる。
「……結界に近づいた折に、気配は感じておりました。狐の気配にも随分と警戒しておりましたな。──蠱術由来の猫神ですか。道理で気が荒い」
「師匠が言うには、祀りを戻せば落ち着く筈と。しかし、祀り方もわからんし、付き合い方もわからないと」
「年を経て二尾となっているのなら、私たちのように話すこともできそうなものですが?」
「……言葉を話す気配は無かったな」
「なるほど、それは未熟だ。学ぶ機会がなかったのか、それとも学ぶ相手がいなかったのか──それで鬼切殿は、私に何をお望みで」
「白狐殿に話を通してほしい。お絹殿の猫のことを、相談できないかと」
灰狐は即答しなかった。尾の先がゆらゆらと揺れ、何か算段を立てるように源一郎を見ている。
「……率直に申し上げてもよろしいですか、鬼切殿」
「構わん」
「──中々に難しい話でございますな」
「やはり……そうか」
「お方様──白狐様にお繋ぎすること自体は可能です。それは私の役目ですから。ですが──猫は稲荷の眷属ではございません。お鈴さんの場合は狐憑きでした。つまりは、お方様にとっては若い者を眷属として迎え、教育するようなもの。しかし猫神となると、全く話が違ってまいります」
「それは分かっている」
「加えて申しますと──お方様は白狐、豊川稲荷の神使です。困っている人間の願いを片端から叶えて回るような便利な存在でもございません。お方様が動くには、お方様なりの道理と利がなくてはならない。猫神に憑かれた人間を助けることに、お方様がどれほどの意義を見出されるか──正直なところ、私には見当がつきかねます」
灰狐の物言いは丁寧だったが遠慮はなかった。嘘のない率直な見立て。そう言われるのは分かっていたことだ。しかし、源一郎はそういうハッキリした態度は嫌いではなかった。
「もし──もし、それでもお方様にお繋ぎするのであれば、それ相応の筋道を立てる必要がございます。供物一つで済むような話ではないと、覚悟しておいていただきたい」
「承知している。──だが、筋道ならば一つ考えついている」
源一郎は言った。
「師匠が言っていた。猫は狐のおばと呼ばれ、猫と狐は古くから近しい仲だと。蠱術由来の猫神であっても、猫であることに変わりはない。猫に二足で歩く方法や、踊りを教授する狐の話もあると聞く──稲荷の眷属ではなくとも、縁が全くないわけではないのだろう?」
灰狐は暫く動かなかった。金色の目が遠くを見るように細められ──やがて、小さく息をついた。
「……なるほど。それは確かに、一つの筋道ではございますね。猫と狐が古い縁を持つというのは、我々の間でも知られたこと」
「白狐殿に話を聞いてもらえるだけでいい。受けるかどうかは白狐殿のお考え次第だ。こちらの事情を知った上で断られるなら、それまで。だが、知ってもらうことすらできなければ道は開けない。──頼む。灰狐殿や、白狐殿しか頼れんのだ」
そう言って深く頭を下げる。灰狐は金色の目でじっと源一郎を見つめた。尾の揺れが止まる。
「……分かりました。鬼切殿にそう言われてしまっては仕方がありません。お方様にお伝えいたします」
「本当か」
「ただし──」
灰狐が付け加えた。声の調子が僅かに変わった。
「実のところ、お方様の方からも鬼切殿にお話があるようでして」
源一郎は眉を上げた。
「白狐殿の方から?」
「ええ。少し前から、お方様が気にかけておられることがあるようなのです。詳しくは私の口からは申し上げられませんが──猫の件をお伝えする折に合わせて、鬼切殿がお伺いしたいとお伝えしておきましょう。赤坂の本社にて」
「あい分かった。供物を用意して参る」
「両国の豆腐屋の油揚げをお忘れなく。あれが一番お気に召しておりますので」
灰狐はそこでようやく、少しばかり普段の調子を取り戻したようだった。商人じみた物腰で笑い、金色の目を細めている。
──と、その時。
「源一郎──!飯が出来たぞー!秋刀魚だ!冷める前に早く来い!」
台所の方から、俊源坊の声が庭を揺るがすように響いた。
灰狐は一瞬で毛を逆立てた。弾かれたように身を翻し、祠の裏に飛び込む。あっという間に灰色の体が消え、祠の影から微かに震える尾の先だけが覗いていた。
「……で、では鬼切殿、私はこれにて──お方様への言伝は必ず──はい、確かに……──」
声が尻すぼみになり、気配が薄まっていく。灰狐は狐塚の奥深くに引っ込んでしまった。
源一郎は暫くその場に立ち──それから堪えきれず、小さく笑った。あの飄々とした灰狐が、天狗の大声一つでこうも取り乱す。菖蒲の言葉を借りれば「びくびくしてる」──まさにその通りだった。
「──さて、今日は秋刀魚らしい」
源一郎は笑いを噛み殺しながら、座敷へと向かった。
秋の夕暮れが渡辺の屋敷を柔らかく包んでいる。祠の鳥居が西日を受け、独特の情緒を醸す。台所の方からは魚を焼く香りが漂い、おたかや、お鈴が急かされて膳を並べている音がする。
賑やかな夕刻だった。




