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鬼切与力つなもり事件帖  作者: ミミック
四章 京橋狐猫口寄騙

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第九十五話


 座敷が静まった──。


 神谷の眉間に皺が寄っていた。紀州の出。家に伝わる猫の言い伝え。巫女の家系。


「お前さんの家が紀州の出で、猫に纏わる言い伝えがあるならば──その赤毛の猫は、家が古くから祀ってきた猫神である可能性が高い。代を重ね、一族と共に継がれてきた。それが紀州から江戸に移った折に、あるいはそれよりも前に祀ることをやめた。しかし、蠱──猫の方は家を離れなかった」

「離れなかった……」

「猫にはな、縄張りがある。一度居着いた場所からは中々動かん。追い出しても戻ってくる。──それが猫の性質であり、猫神の恐ろしさでもある」


 俊源坊はお絹の傍の猫に目を向けた。菖蒲に撫でられ喉をゴロゴロ鳴らしている、二つに割れた尾を持つ赤毛の猫。


「尾が二つに割れておるのも、その証となるだろう。年を経た猫が尾を割らせて化け猫になるという話とは、また違う。猫神として祀られ代を重ねた猫は──割れた尾のまま次の代に継がれてゆくのだからな」


 そこで源一郎が口を挟んだ。


「お師匠。──もし猫神を継いだものであるならば、祀ることをやめた後に障りは出るのですか」

「出るであろうな」


 俊源坊は煙管の灰を落とした。


「神を祀るというのは、一方的な関係ではない。祀る者と祀られる者の間に契りがある。人が供物を捧げ、祈りを捧げ、敬意を払う。その代わりに神は加護を与え、力を貸す。──この均衡が崩れた時に障りが出る」

「均衡が……崩れた時」

「祀ることをやめたということは、人の側から契りを断ったということだ。まして……蠱術により作られた神とは、そう簡単に落とせるものではない。祀られなくなった神は、存在意義を失ったまま血に宿り続ける。──供物もなく、祈りもなく、名を呼ぶ者もいない。しかし縁は切れておらん。そうなれば神は祟る。力の遣り場がなくなり、障りとなって主人に降りかかるのだ」


 神谷が息を呑んだ。──お絹の障りの根本は、猫憑きが悪いのではなく、祀りが途絶えたことにあるのかと。


「ただし──」


 俊源坊は一つ間を置き、お絹の方を見た。


「お前さんの猫は、よう耐えていると俺は見る」


 自由気ままな猫であるからか──と続け、お絹が顔を上げた。


「祀りが途絶えて何代になるかは知らんが……その間、大きな祟りは起きておらんのだろう。人死は分からんが、家が滅ぶような祟りはな。猫が本気で祟っておるなら、そんなものでは済まん」

「……確かに。家が絶えたということはありません」


 神谷が頷いた。俊源坊はそこで、お絹に向き直った。


「お前さん。この屋敷に入ってから、頭が痛んでおったろう」


 お絹の目が見開かれた。気づいていたのか。神谷もお絹の方を見た。──妹が時折こめかみを押さえていたのには気づいていた。いつものように障りが出ているのだと神谷は思っていたが……お絹は口下手で、大事なことをいつも隠してしまう。


「人でないものが近くにいると障りとして顕れる──そういうものなのだろう。この屋敷には狐も座敷童も、他にも色々と棲んでおるからな。その猫は警戒しておった。頭が痛むのは、宿主に危険を知らせる──注意を促すための猫なりの守り方だ」


 お絹は息を詰める。あの頭痛は──障りではあるが、猫からの報せでもあった。


「座敷童がその猫に触れた途端に頭痛が消えたのは──猫が座敷童を敵ではないと判断したからだろう。警戒を解いた故に障りも止んだ──。猫が座敷童に撫でられて穏やかになったということは、居場所を得れば猫は落ち着くということでもある」


 お絹はちらりと菖蒲を見た。座敷童の少女は相変わらず無心に猫を撫でている。大きな赤い猫は心地良さげに目を閉じ、普通の猫のように仰向けになっていた。──あんなに穏やかな顔をした猫を、お絹は見たことがなかった。


「猫が求めているのは──祀りを戻すことなのかもしれん。居場所を与えること。供物と祈りと、名を呼ぶ者。それがあれば猫は安定し、障りも治まる」

「祀りを、戻す……」


 源一郎が呟いた。


「だが、ここに問題がある」


 俊源坊は腕を組んだ。


「……猫神をどう祀るかという作法が、途絶えてしまっておる。お前さんの家に伝わっていた筈の祀り方──口寄せ巫女が代々受け継いできた作法が、今は失われている。作法を知らずに祀れば、かえって障りが強まることもある。それが厄介なところだ」


 座敷に沈黙が落ちた。


 お絹は膝の上で拳を握っていた。猫憑きの障り。それは祀りが途絶えたことが原因。だが、祀り方が分からない。──堂々巡りだった。


「──人と猫との間を取り持つ者がいないという問題もあろう」


 俊源坊が続けた。


「狐は婚姻により増え、群れる獣だ。稲荷の眷属の中にも上下の序列があり、先達が未熟な若い者を教え導く仕組みがある。お鈴の御先狐にも、豊川稲荷の眷属がついた。──だが猫は群れぬ。故に猫憑きの者は一人、己に憑いた猫と向き合わねばならん」


 神谷の拳が膝の上で握られた。──では、どうしたらよいのかと。


「手立ては……ないのでしょうか」


 神谷の声に切迫したものがあった。


 俊源坊は暫く黙った。考え込むように目を閉じ──それから、正直に言った。


「確たることは、今の俺には言えん。──だが、道が全く閉ざされているとも思わん」


 それから俊源坊は煙管を膝に置き、一拍置いて付け加えた。


「──面白いことにな。昔から猫は狐のおばとも言われる。狐と猫が連れ立って夜の山を歩くという伝承は彼方此方にあるし、猫と狐が夫婦になるという話すらある。総じて──猫と狐は近しい仲だと、古くから伝えられておる。間を取り持つような、猫に近い獣が全くおらんわけではない──のう、源一郎」


 源一郎が師の言葉を受けて口を開いた。


「──はい。ならば、神谷殿。一つ、俺から提案がある」


 神谷が顔を向けた。


「この屋敷の庭に豊川稲荷の御分霊を祀った祠がある。そこには灰狐殿という眷属が棲んでおる。その灰狐殿を通じて──豊川稲荷の神使である白狐殿に、一度、お絹殿の猫のことを相談してみるというのはどうだろうか」

「それは、願ってもない──」


 そこで、源一郎はただし、と付け加え、言葉を選びながら続けた。


「ただ……白狐殿は、本来人間の都合であれこれと動く存在ではないのだ。勧請にも骨を折って貰った手前、軽々に願い事をするのは憚れる。──だが、まずは灰狐殿に話を通し、白狐殿の耳に入れることくらいならば、可能なのではないだろうかと思う」


 俊源坊が小さく頷いた。


「どうするか決めるのは──神谷殿と、お絹殿だ」


 神谷はお絹を見た。


 お絹は──菖蒲に撫でられている猫を、静かに見つめていた。猫は目を閉じ、喉を鳴らしている。菖蒲に嫉妬を覚えるような穏やかな顔だった。


 暫しの沈黙があった。


「──兄上」


 お絹が言った。短く、小さな声だが、迷いはなかった。神谷はお絹の目を見た。泣いた後の僅かに赤い目。だが──その奥に、久しく見なかった光が見える。


「……分かった。──渡辺殿、お願いできるだろうか」

「承知した。灰狐殿には話を通しておく。──ただ、白狐殿が応じてくださるかどうかは先方次第。それだけは含んでおいてほしい」


 神谷は深く頷く。それから俊源坊は膝を叩いて立ち上がった。


「よし!まぁ──今日のところはここらまでにしておけ。そう急ぐ訳でもないのだろう?色々と一度に詰め込んでも、頭が追いつかん」

「それもそうですな。猫憑きの状態は今に始まったことではありませんので」

「うむ。──さぁて、飯の準備ははそろそろであろうか。源一郎よ、今日はおそらく秋刀魚だ。おたか殿が塩漬けを買っていたのを見たからな。少し前までは下魚だ何だと言われていたが、美味いものは美味い。楽しみよな」


 庭に出て、台所まで屋敷を回るように歩きながら「おーい、おたか殿!飯はそろそろか!」と声を張る。奥からおたかの「まだですよ」という声が比較して小さく聞こえた。最後まで自由な男であった。


 §


 神谷とお絹が帰路につく時分、源一郎は門まで二人を送った。


「結界のことは伝えておく。次からは迷わず来られる筈だ」


 源一郎はそう言い、それからお絹に向き直った。


「お絹殿。──いつでもこの屋敷に来てくれ。結界の内側は外と隔てられている。秘密が漏れる心配はない。話したいことがあれば話し、何もなければ茶を飲みに来るだけでもいい。菖蒲も──猫を撫でたがるだろうからな」


 お絹は源一郎を見つめた。あの夜、自分を捕らえた男。今日は、自分の猫が見えると言った。泣いた顔をも見られてしまった。直感──不思議な巡り合わせに感じる。


「……また、参ります」


 お絹が言った。小さな声だったが──「また」という言葉に確かな意志があった。


「では、渡辺殿。我らはこれにて失礼いたす」


 源一郎は軽く手を挙げて応えた。


 二人の姿が、居並ぶ板塀の曲がり角に消えていく。お絹の足取りは来た時よりも──僅かにだが、確かに軽くなっていた。


 門前に残った源一郎は秋の空を見上げた。鰯雲が流れ、鳶が旋回している。


「……痩せておったな」


 呟いた。牢で見た時よりも明らかに。猫の障りが、それほどまでに身を蝕んでいるのか。


 ──白狐殿の返事が、良いものであればよいが。


 庭から、また俊源坊の声がした。おたかに飯の催促をしているらしい。おたかと、お鈴が慌ただしく支度している音も聞こえる──師と言えども、そろそろ叱られそうなものだ。菖蒲の姿も、もう見えない。赤毛の猫がお絹と共に去ったことで菖蒲も屋敷の何処かに戻ったのだろう。


 源一郎もまた踵を返し、屋敷に戻った。


 秋の風が庭の萩を揺らし、祠の鳥居が西日を受けてほのかに朱く光っていた。

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