第99話 孤絶の脱出
牡丹の気配が完全に消え去った直後、無数の軍靴の音が、ついに官邸地下の回廊へと雪崩れ込んできた。
フラッシュライトの鋭い光の束が、暗闇を切り裂きながら縦横無尽に走る。新政府軍の兵士たちが、血痕とパワードスーツの残骸を辿り、確実な殺意を持って迫ってくる。
戌亥は崩れかけたコンクリートの壁に身を潜め、己の機能停止寸前の体を見下ろした。
かつての『国家の犬』であったなら、残されたわずかな電力と火薬を暴走させ、一人でも多くの敵を道連れにして自爆の道を選んでいただろう。己の命を消費し尽くすことこそが、彼に与えられた唯一の存在意義だったのだから。
だが、今の彼を突き動かしているのは、破滅への衝動ではなかった。
『あなたは……自由になれるわ』
『ほな、お互い生きようや』
エイダが遺した呪いの言葉と、牡丹が残した戦友としての願い。
それらが、孤独な狂犬の背中を静かに、しかし力強く押していた。
死に場所など、とうの昔に通り過ぎた。自分が奪ってきた無数の命に報いるためにも、この自由という重い呪いを背負い、どこまでも生き延びてやらなければならない。
「……行くか」
戌亥は、人工動力炉の底で燻る最後の電力を、すべて漆黒のマントへと回した。
ノイズと共に空間が歪み、『ヤタノカガミ』の光学迷彩が起動する。直後、角を曲がってきた兵士たちのライトが戌亥のいた空間を照らし出すが、そこにはただの瓦礫と血だまりが残されているだけだった。
戌亥は風景と同化し、無音の足取りで敵兵たちの脇をすり抜けた。
向かった先は、官邸のさらに奥底。かつて新京が建設された初期に使われ、今では完全に忘れ去られていた旧式の廃棄水路である。
ヘドロと有毒な汚水が溜まる地下水道は、上の階層で暮らす特権階級の市民たちが決して見ることのない「無菌のユートピア」の本当の腸だった。
激痛と機能不全を意志の力だけでねじ伏せ、戌亥は膝まで汚水に浸かりながら、果てのない暗闇をひたすらに歩き続けた。傷口から漏れ出す黒いオイルが、水面に虹色の波紋を広げては消えていく。
どれほどの時間を歩いたのか。
やがて、冷たい地下の空気に、微かな潮の匂いが混じり始めた。
水路の終端。瀬戸内海へと直結する隠しドックに辿り着いた戌亥は、光学迷彩を解き、大きく息を吐き出した。
そこに、一隻の船が係留されていたからだ。
レーダーを誤魔化すためのステルス塗料が雑に塗られた、旧式の小型密輸船。
操舵席には、無造作に起動キーが放り投げられ、その横には戌亥の体を維持するための予備の冷却液と、見慣れたメンテナンス用の工具箱が置かれていた。
「……東雲」
戌亥は、微かに口角を上げた。
あの無愛想なオペレーターは、狂犬が最後には首輪を引きちぎり、自分の意思で生き延びる道を選ぶことを、誰よりも信じていたのだ。
彼もまた、崩壊する本部から無事に逃げ延びていることを祈りながら、戌亥は錆びついた甲板へと足を踏み入れた。
キーを回すと、古いディーゼルエンジンが重々しい産声を上げた。
自動操縦のシーケンスを起動し、目的地を「極東」へと設定する。密輸船は静かにドックを離れ、夜明け前の瀬戸内海へと滑り出した。
冷たい海風が、熱を持った戌亥の巨体を撫でる。
彼は甲板に立ち、遠ざかっていく日本の新首都を振り返った。
水平線の彼方から昇り始めた暁光が、巨大な階層都市を赤々と照らし出している。
システムは死に絶え、完璧な監視社会は崩壊した。かつて栄華を極めた無菌のユートピアからは、あちこちで黒煙が上がり、新しい時代の産声と、旧時代の断末魔が入り交じる凄惨な景色が広がっていた。
すべては国家のために。
そう信じて、この手で殺してきた同胞たちの顔が、朝の光の中で次々と脳裏に浮かんでいく。
罪は消えない。国家という虚構が崩れ去っても、自分が流させてきた血の重さが軽くなるわけではない。
「……背負って、生きていくさ」
戌亥は、海風に靡くヤタノカガミを強く握りしめ、燃え盛る新京に向けて、静かに別れを告げた。
太陽が完全に昇り、新しい時代が幕を開ける。
すべてを失った男の、自由と孤独に満ちた旅路が、今、始まった。




