第100話(最終話) 北の極寒へ
新京の崩壊から数ヶ月が経過した。
東京湾上に急造された巨大なメガフロートでは、青空の下で数十万の群衆が熱狂的な歓声を上げていた。
巨大なホログラムモニターに映し出されているのは、日本亡命政府代表であった小津家高の姿だ。彼は力強い声で『新日本共和国』の樹立を宣言し、独裁と監視の時代が完全に終わったことを高らかに告げていた。
新しい時代の幕開け。ニュースキャスターたちは希望に満ちた声で新政府の門出を讃え、その一方で、未だに地下へ潜伏している旧治安維持局の残党狩りが順調に進んでいることを、当然の正義として報道し続けていた。
だが、その華やかで熱狂的な音声は、国境を越えた極東の空で、吹き荒れる猛吹雪のノイズにかき消されていく。
ユーラシア大陸の東の果て、ソ連・ウラジオストク。
終わることのない戦争と、人を容易く凍死させる苛烈な寒波に覆われた絶望の要塞都市。そこには新日本の希望に満ちた青空などなく、ただ鉛色に沈んだ重い雲と、死を孕んだ白い風が吹き荒れるばかりだった。
都市の片隅にある廃墟の路地裏で、乾いた足音が雪を踏みしめていた。
「待て! 逃げるなクソガキ!」
ロシア語の罵声と共に、武装した数人の野盗が、一人の難民の子供を追い詰めていた。子供の腕には、どこかの配給所で盗んできたであろう、黒ずんだ小さなパンが抱えられている。
戦争孤児が野盗に狩られ、その命がパンひと切れよりも安く消費される。それが、この極寒の地における日常だった。
雪に足を取られて転倒した子供に、野盗の一人が下卑た笑いを浮かべながら、旧式のライフルの銃床を振り上げる。
子供は恐怖に顔を引きつらせ、泥まみれのパンを抱きしめたまま、強く目を閉じた。
だが、振り下ろされるはずの鈍痛は、いつまで経っても訪れなかった。
ドスッ、という重い打撃音。
次いで、野盗の男が雪まみれの地面を数メートルも転がっていく音が響いた。
子供が恐る恐る目を開けると、そこには、いつの間にか一人の『巨漢』が立っていた。
みすぼらしい旧式の防寒コートを深く羽織り、完全に欠損した左腕の空間を隠している。コートの隙間から覗くのは、無骨な分厚いチタン装甲と、所々オイルの染みがついた包帯だ。
「……てめぇ、何者だ!」
仲間の野盗たちが慌てて銃を構える。
巨漢は、ロシア語の威嚇など理解していないのか、あるいは最初から気にも留めていないのか、吹雪の中で微動だにしなかった。ただ、残された右腕をコートの下からゆっくりと引き抜く。
その手には、この貧しい街には似つかわしくない、巨大で凶悪な大口径拳銃『ヤタガラス改』が握られていた。
「殺せッ!」
野盗たちが引き金を引こうとした、その瞬間。
轟音。
レーザーではない。限界まで装薬を詰め込んだ20ミリ徹甲弾の物理的な咆哮が、吹雪のノイズを完全に吹き飛ばした。
巨漢が片手で無造作に放った一撃は、野盗たちの足元にある分厚いコンクリートの残骸を粉々に砕き割り、凄まじい衝撃波と石の破片を撒き散らした。
「ひぃッ……!?」
ただの一発の威嚇射撃。それだけで、彼我の絶対的な戦力差を理解するには十分だった。野盗たちは腰を抜かし、武器を放り出すと、悲鳴を上げながら吹雪の彼方へと逃げ去っていった。
路地裏には、再び風の音だけが戻ってきた。
巨漢——戌亥迅は、逃げていく野盗の背中を追うこともなく、ヤタガラス改を静かにコートの奥のホルスターへと収めた。
彼の機体は、かつて新京の暗部『鴉』として恐れられていた頃の輝きを完全に失っている。東雲のチューニングも限界を迎え、右胸の貫通傷は応急処置が施されているものの、動力炉の出力は常に不安定だ。少し無理をして動けば、人工筋肉が悲鳴を上げて軋む。
戌亥は、雪の中に座り込んでいる子供を一瞥すると、何も言わずに背を向け、再び歩き出そうとした。
「……あっ」
子供が、震える声で呼び止める。言葉は通じないかもしれない。それでも、死の淵から救い出してくれた得体の知れない機械の男に、子供はどうしても聞かなければならない気がしたのだ。
「……誰かに、命令されたのか?」
片言の日本語。難民として流れ着く過程で覚えたのだろう。
この過酷な街では、力を持つ者は皆、軍かマフィアの命令でしか動かない。見ず知らずの子供を無償で助ける人間など、存在しないのだ。
その問いかけに、戌亥はピタリと足を止めた。
『命令』。
かつての彼を形作っていた、絶対の法。その呪縛から逃れるために、彼は神を殺し、戦友と別れ、居場所を捨ててここまで来た。
戌亥はゆっくりと振り返り、吹雪に煙る鉛色の空を見上げた。
自由とは、恐ろしい呪いである。
命令に従って生きていた頃は、自分が奪った命の理由を「国家」のせいにできた。だが今は違う。誰を助け、誰を見捨てるのか。いつ戦い、いつ死ぬのか。そのすべての責任と痛みを、自分一人の魂で引き受けなければならない。
それは、システムとして生きるよりも遥かに重く、孤独で、不器用な生き方だった。
だが、戌亥の赤い単眼レンズの奥で、確かな『人間としての熱』が静かに脈打っていた。
「いや……」
戌亥は、雪空から子供へと視線を移し、極寒の空気に白く濁る息を吐き出しながら、静かに答えた。
「俺が、そうしたかっただけだ」
それ以上、彼が語る言葉はなかった。
かつて狂犬と呼ばれた男は、みすぼらしいコートを翻し、再び猛吹雪の中へと歩み出す。
守るべき国家も、帰るべき場所も、とうの昔に失った。
それでも、片腕のサイボーグは、雪の降る異郷の地でただの『野良犬』として、自らの意思で人を守るために生き続ける。
深く積もる新雪が、彼の残した足跡を、やがて優しく白く覆い隠していく。
自由という名の呪いを抱きしめたまま歩み続ける彼の孤独な旅路は、どこまでも、ただ静かに続いていた。




