第97話 さらば、狂った神よ(神の最期・後編)
仮想空間の豪奢な執務室。
「永遠にこの国に尽くせ」という犬養の傲慢な命令が響き渡った後、そこには奇妙な沈黙が落ちていた。
かつての戌亥であれば、その言葉は絶対の法であり、即座に膝をついて恭順を示していたはずだ。システムとして設計されたサイボーグにとって、マスターの命令を拒絶するなど物理的に不可能なのだから。
犬養は、自らの最高傑作が従うのを当然のように待っていた。
だが、戌亥は動かない。
現実世界の血塗られた大回廊で、敵の残骸を踏みつけながら立ち尽くす彼の巨体は、限界を超えて軋みを上げていた。それでも、人工脳の最深部で燃える「個人の意思」は、神の強制アクセスという巨大な圧力を正面から跳ね返していた。
戌亥は、仮想空間の犬養を、赤い単眼レンズで真っ直ぐに見据えた。
「……断る」
それは、酷く掠れた、しかし鋼鉄のように硬く冷徹な拒絶だった。
犬養のアバターが、微かに眉をひそめた。
『……なんだと? エラーか、戌亥。私はお前に命じているのだぞ。お前を造った、この私が』
「俺はもう、お前の犬じゃない」
戌亥の言葉は、静かだが、圧倒的な熱量を持っていた。
エイダが遺した自由という呪い。牡丹と笑い合いながら選んだ、理屈のない意地。そして今、背後で震える名もなき市民たちを守りたいという、システムには存在しないはずの人間としての衝動。
「誰の犬にもならない。……俺は、俺の意思で生き、俺の意思で死ぬ」
明確な決別宣言。
その言葉が放たれた瞬間、仮想空間の執務室に激しいノイズが走った。
深層データバンクでアメリカ特務部隊によるハッキングが最終段階に入り、システムの崩壊が臨界点に達したのだ。
犬養のアバターを構成するデータが、足元からパラパラと崩れ落ちていく。
絶対的な支配を拒絶された狂った神は、激昂するでも、絶望するでもなかった。ただ、自らが創り出した兵器が、プログラムの枠を超えて一つの「魂」を獲得した事実を、どこか感嘆するような目で見つめていた。
『……そうか』
犬養の顔がノイズに塗れ、その表情は読み取れなくなる。だが、最後に響いたのは、微かに笑ったような、どこか安堵したような電子のノイズだった。
光の粒子が弾け、仮想空間は完全にブラックアウトした。
***
官邸地下、最下層廃棄ブロック。
「システムダウン。ターゲットの完全沈黙を確認」
アメリカ兵の報告と共に、巨大な培養槽を照らしていた光が消えた。
濁った緑色の液体の中で、おびただしい数のケーブルに繋がれた脳髄は、もはや電気信号を放つことのない、ただの死肉へと変わっていた。
その瞬間、新京という巨大なシステムそのものが、物理的な死を迎えた。
第一階層の大回廊。
戌亥たちの頭上で赤く明滅していた非常灯が、パツン、パツンと連鎖的に落ちていく。
それは官邸地下に留まらなかった。中層の巨大なホログラム広告、下層を照らしていた人工太陽、都市の環境を制御していた巨大な空調ファンの駆動音。
瀬戸内海に浮かぶ階層都市のあちこちで、数え切れないほどの電源が次々と落ちていく。
空を覆っていた酸性雨の雲の隙間から、冷たい自然の月光が、電源を失った都市の輪郭を青白く照らし出した。
機械の駆動音も、スピーカーからのプロパガンダも、すべてが止んだ。
後に残されたのは、気が狂いそうなほどの静寂と、巨大な墓標のようにそびえ立つ暗闇の鉄塔だけだ。
すべてを管理し、すべてを抑圧してきた虚構の国家。
一人の独裁者の狂気から始まり、数百万の命を巻き込んだ「新京」という時代は、今ここに、物理的にも概念的にも完全に終焉を迎えた。
暗闇の大回廊で、戌亥は静かに息を吐き、ヤタガラス改を下ろした。
狂った神は死に、鎖は断ち切られた。
夜明け前の静かな闇の中で、自由という名の果てしない孤独が、彼を待っていた。




