第95話 突破される絶対防衛線(官邸地下の攻防・その3)
轟音と熱風が吹き荒れる官邸地下の大回廊。
アメリカ軍の最新鋭パワードスーツ部隊と、革命軍の主力による波状攻撃は、完全に停止していた。
「……ハァ……ッ、ハァ……」
戌亥迅の巨体が、大きく揺れる。
彼の右腕のパイルバンカーは限界を超えた酷使により完全にひしゃげ、ヤタガラス改の銃身も赤熱して変形しかかっていた。右胸の貫通傷から吹き出す黒煙は、もはや人工動力炉がメルトダウン寸前であることを告げている。
『Warning: Reactor Core Integrity 1%. Imminent Failure...』
網膜ディスプレイを埋め尽くす赤いエラーコードの点滅すら、今の戌亥にはただの煩わしいノイズでしかなかった。
隣に立つ御堂牡丹もまた、絶望的な状況だった。
「……アカン、もう弾がカラや」
彼女は、二丁の『雷火』のトリガーを空しくカチカチと鳴らし、ため息をついた。両足の『壱式・瞬発穿孔脚』も、油圧シリンダーが焼き切れており、もはや射出できない。装甲の大部分が剥がれ落ち、人工筋肉のワイヤーが千切れて火花を散らしている。
だが、二人の足元には、数え切れないほどのパワードスーツの残骸と、戦意を喪失して後退していく革命軍の兵士たちの姿があった。
たった二機のポンコツが、最新鋭のテクノロジーと圧倒的な物量を前に、正面からの攻撃を完全に退けたのだ。
その後方で、彼らに守られた数十名の市民たちが、恐怖に震えながらも、血まみれになって戦い抜いた二匹の「番犬」の背中を、畏敬の念を込めて見つめている。
「……なんとか、もったな」
戌亥は、ヤタガラス改をホルスターに収め、荒い息を吐いた。
だが、その直後。
戌亥と牡丹の人工脳に、内部システムからの緊急アラートが突き刺さった。
『警告。深層データバンク(廃棄ブロック)への不正アクセスを検知。……別ルートより、複数の熱源が侵入。識別信号……CIA特殊作戦部「ファントム・スレッド」』
「……チッ、別働隊か」
牡丹が舌打ちをする。
「正面のドンパチは陽動で、本命は裏口から回り込んどったってわけやな」
アメリカ軍の狙いは最初から、新京のシステムそのものである「犬養旭弘」の脳髄を確保、あるいは破壊することだった。
深層データバンクへの物理的なアクセスを許せば、犬養の命は終わる。それはつまり、戌亥たちがこれまで命を懸けて守り抜いてきた「絶対的な忠誠の対象」が消滅することを意味していた。
「……戌亥。どうする」
牡丹が、真剣な眼差しで戌亥を見た。
「ウチらの足なら、今からでも地下へ向かえば間に合うかもしれん。……でも、ここを空けたら」
牡丹の視線の先には、怯える市民たちと、遠くで再び陣形を立て直しつつある革命軍の残存部隊がいる。
今、ここで戌亥たちが防衛線を離れれば、暴徒化した革命軍は確実に市民たちを蹂躙するだろう。
究極の二択。
かつての『国家の犬』であれば、迷うことなく市民を見捨て、犬養を守るために地下へ向かったはずだ。それが彼らにプログラミングされた「正義」であり、「命令」だったのだから。
だが。
「……神様は、アメリカさんにくれてやろうや」
牡丹が、いつもの飄々とした笑みを浮かべて言った。
「あんなカビ臭い地下室で、ずっと脳みそだけで考え事しとるようなジジイや。もうええ加減、休ませてやらなアカンやろ」
その言葉に、戌亥はゆっくりと頷いた。
「……ああ。そうだな」
戌亥の赤い単眼レンズが、地下深く——犬養がいるであろう廃棄ブロックの方向を一度だけ見つめ、そして、背後にいる市民たちへと向き直った。
「俺たちの仕事は、もう終わった。……いや、最初から間違っていたんだ」
戌亥の声は、激しい損傷を負っているにもかかわらず、どこまでも静かで、澄み切っていた。
「神を守るのが犬の仕事なら、俺はもう犬じゃない。……俺は、俺の意思で、お前たちを守る。それが、俺の選んだ『自由』だ」
その瞬間、戌亥迅と御堂牡丹という二機のサイボーグは、長年彼らを縛り付けてきた「国家の犬」という呪縛から、完全に、そして永遠に卒業した。
彼らは自らの意思で、かつての神を見捨て、目の前の名もなき命にその身を捧げることを選んだのだ。
「……ホンマ、ええ顔するようになったやんか、戌亥」
牡丹は、血に塗れた戌亥の背中を軽く叩き、再び迫り来る革命軍に向けて、残されたナイフを構えた。
絶対防衛線は、物理的には彼らの背後で突破された。
だが、彼らの魂の防衛線は、かつてないほど強固に、そして美しく輝いていた。
地下深くで、アメリカ軍の特務部隊が、ついに犬養旭弘の眠る巨大な培養槽へとたどり着こうとしている。
虚構の国家の最期が、すぐそこまで迫っていた。




