第92話 豚の末路(革命前夜・後編)
『衛星レーザー・アマテラス、照準座標ロック。ワシントンD.C.ならびに瀬戸内海上の敵艦隊……発射シーケンス移行。3、2、1……』
官邸地下のオペレーションルームに、無機質なカウントダウンが響き渡る。
木下英雄は、血走った両目を見開き、コンソールにすがりつくようにしてモニターを凝視していた。これでいい。この一撃ですべてがひっくり返る。自分をコケにしたアメリカも、小津の艦隊も、すべて宇宙からの裁きの光で灰になるのだ。
「……撃てェェェッ!!」
木下が絶叫したその瞬間。
モニターに映し出されていた宇宙空間のアマテラスの機影が、音もなく、巨大な閃光と共に四散した。
『……エラー。アマテラスとの通信ロスト。メインフレーム崩壊。……アメリカ宇宙軍の極秘軌道ミサイルによる直撃を確認。アマテラスは……完全に破壊されました』
オペレーターの震える声が、絶望の宣告として室内に落ちた。
静寂。
木下の顔から、みるみると血の気が引いていく。
「は……? 破壊、された……? ワシのアマテラスが?」
それは、木下が手札として持っていた最後のカードだった。
威厳ある独裁者としての仮面が、音を立てて崩れ落ちる。
「う、嘘だわ! そんなはずなかろうが! 直せ! 今すぐ予備システムを起動せんか!!」
「む、無理です総理! 物理的に完全に消滅しました!」
「黙れ! 黙れ黙れ黙れェッ!! 役立たずどもが!!」
狂乱した木下は、手近にあった椅子をオペレーターに向かって投げつけ、泡を飛ばして絶叫した。
「ワシは国だぞ! ワシは新京そのものなんだわ! こんな……こんなところで、終わってたまるか……ッ!」
木下は、部屋にいる石田や加藤らを見捨てるように背を向け、一人でオペレーションルームから逃げ出した。
向かう先は、官邸の最深部に隠された、総理専用のVIP用脱出ポッド。権力者だけが生き延び、安全な海域へと逃れるための最後の泥舟だ。
「ハァッ、ハァッ……! ワシは死なん……ワシは絶対に死なんぞ……ッ」
豪華なスーツを振り乱し、無様に廊下を走る木下。中卒のチンピラから這い上がり、犬養の威光を利用してようやく手に入れた絶対権力の座。こんなところで手放してたまるものか。逃げて、また新しい舞台を作ればいい。
だが、脱出ポッドが格納された隠しドックの扉の前に辿り着いた時、木下は足を止めた。
薄暗いドックの入り口に、数人の男たちが立っていたからだ。
「……石田? お前、なんでここに……」
そこにいたのは、先ほどまでオペレーションルームで震えていた内務大臣の石田光明と、数名の官僚、そして武装したSPたちだった。
「総理……いえ、木下英雄」
石田は、かつての卑屈な態度を完全に捨て去り、冷ややかな目で木下を見下ろしていた。
「脱出ポッドのパスコードは、すでに我々が変更しました。……あなたは、ここからは逃げられない」
「な、何を言っとるんだわ! ワシを誰だと思っとる! この国のトップだぞ! さっさとそこをどかんか!」
木下が激昂して怒鳴り散らすが、石田たちは微動だにしない。
「トップ? 笑わせないでいただきたい。軍は壊滅し、アマテラスも失われた。あなたの『舞台』はもう完全に崩壊したんですよ」
石田は、軽蔑を込めて吐き捨てた。
「小津代表の亡命政府が、もうそこまで迫っている。我々が新政府で生き残るためには……木下、あなたの首という『最高の手土産』が必要なんです」
「てめぇら……ッ! ワシが拾って、大臣の椅子に座らせてやった恩を忘れたかァッ!」
裏切り。それは木下が権力闘争の中で最も多用し、最も恐れていたものだった。
激しい恐怖と怒りで顔を醜く歪ませた木下は、腰のホルスターから拳銃を抜き放とうとした。
「ワシは国だァァァッ!!」
だが、彼の引き金よりも、SPたちが放った銃弾の方が早かった。
特別なアクション映画のような華麗な銃撃戦などではない。ただの醜いもみ合いと、乱射。
「ガハッ……! あ、あぐッ……!」
腹部と胸部に数発の銃弾を浴び、木下は無様に床を転げ回った。
豪華なスーツが、自身のどす黒い血で汚れていく。
「ひぃッ……い、痛い……痛いんだわ……ッ」
這いつくばりながら、木下は血の泡を吹いた。
なぜだ。どうしてこうなった。ワシはただ、誰にも見下されない一番高い場所で、光を浴びたかっただけなのに。
薄れゆく意識の中で、木下はかつて自分を拾ってくれた神の名を呼ぼうとした。
「い、犬養、せん……せ……」
パンッ。
石田が冷酷に撃ち下ろした最後の一発が、木下の頭部を撃ち抜いた。
大国葬で数千の命を奪い、全市民を反逆者と呼んだ絶対的独裁者・木下英雄。その最期は、威厳の欠片もない、かつての部下たちによる滑稽で惨めな「犬死に」であった。
***
一方、第一階層の喧騒から遠く離れた、官邸地下のメイン動力炉。
『Warning: Power Level 5%. System Shutting Down...』
赤いエラーコードが明滅する中、戌亥迅は、血とオイルの海の中で仰向けに倒れていた。
右胸部を完全に貫通され、人工動力炉は沈黙寸前。機体の各所からは黒煙が上がり、もはや指一本動かすことすらままならない、完全な死に体である。
(……終わったな)
戌亥は、ぼやける視界の先で機能を停止したエイダの亡骸を見つめながら、静かに目を閉じた。
これでいい。木下という権力も崩れ、犬養の創った国家も死んだ。自分が狂犬として手を汚し、殺してきた命への贖罪も、ここで共に朽ち果てることでようやく終わる。
システムのエラー音が、まるで子守唄のように優しく聞こえた。
『あなたは……自由になれるわ』
だが。
人工脳の最深部で、エイダが最後に遺したその言葉が、強烈なノイズとなって響き続けた。
自由。
それは、命令に従うことしか知らなかったサイボーグにとって、あまりにも残酷な呪いだった。
「……自由……」
戌亥は、再びゆっくりと目を開けた。
はるか上層から、かすかに響いてくる音がある。
崩落の轟音。革命軍の銃声。そして……理不尽な暴力に蹂躙され、逃げ惑う『市民の悲鳴』。
(……俺は、どうしたい)
命令はない。国家という大義もない。
ここで目を閉じれば、永遠の安息が手に入る。
だが、戌亥の人工脳に芽生えた「個人の意思(人間性)」が、激痛を放つ身体に、熱く、重く、語りかけていた。
ギギギ……ッ。
金属が悲鳴を上げる音が、地下空間に響いた。
出力わずか5%。致命傷を負ったはずの巨体が、残された右腕と、東雲が限界を超えさせた右足の力だけで、ゆっくりと立ち上がろうとしていた。
「ガァァァッ……ハァ……ッ」
傷口から黒いオイルが止めどなく溢れ落ちる。それでも戌亥は、完全に失われた左腕の断面を隠すように『ヤタノカガミ』の漆黒のマントを深く羽織り直し、残された右腕で『ヤタガラス改』を強く握りしめた。
「……まだ、終わってねえ」
戌亥の単眼レンズが、最期の命を燃やすように、暗闇の中で呪わしく赤く発光する。
誰の命令でもない。誰の犬でもない。
ただ、己の意思で、理不尽に奪われようとしている命を守るためだけに。
「行くぞ……」
重い足取りで、瀕死の狂犬は再び地獄の戦場へと歩み出した。
自由という名の、最も重く、最も過酷な呪いをその背に背負って。




