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鋼の狂犬  作者: 八咫 日本


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90/101

第90話 自由の呪い

 戌亥の胸から滴る赤黒いオイルと、エイダの身体から溢れ出す銀色の流体金属。

二つの相反する血が、冷たいコンクリートの床で混ざり合い、崩壊するメイン動力炉の赤い非常灯の下で凄惨な血の海を広げていた。

「……ハァ……ッ、ガハッ……」

右胸部を完全に貫通され、人工動力炉の出力が生命維持の最低ラインまで低下した戌亥は、深々と膝をついたまま激しく咳き込んだ。

彼の足元には、コアを粉砕され、もはや修復不能な状態に陥ったエイダ・クロムウェルが仰向けに倒れ伏している。

『Warning: System Critical. Power Level 5%. Emergency Life Support Mode Activated...』

戌亥の網膜ディスプレイを、絶望的な警告音と赤いエラーコードが埋め尽くす。

だが、戌亥の視線は、自身の傷ではなく、足元で機能停止の時を迎えようとしている美しき暗殺者へと注がれていた。

「……まさか、私が旧式の……ただの質量兵器に、撃ち負けるなんてね」

エイダは、血とオイルの海に沈みながら、息も絶え絶えに唇を動かした。

彼女の第4世代ボディは急速にその色を失い、ナノマシンの結合が解けてひび割れ始めている。しかし、その顔に死への恐怖や任務失敗への悔恨はなかった。

あるのはただ、己のすべてをぶつけ合い、そして自身を凌駕した不器用な戦士への、静かな感嘆だった。

「……なぜだ、エイダ」

戌亥は、微かに痙攣する右腕で自身の傷口を押さえながら、血を吐くように問うた。

「お前たちアメリカの合理性なら……あの一撃の前に、コアを切り離して逃げる道はあったはずだ」

「……そうね。でも、あなたのその……理屈を超えた執念を前にしたら、私も、退けなくなったのよ。……ただの『個』としての、意地かしらね」

エイダは、ゆっくりと、ひび割れた流体金属の腕を伸ばし、戌亥の血に塗れた頬に触れた。

冷たい金属の感触。

しかし、戌亥の人工脳は、そこに不思議なほどの温度を感じ取っていた。

「……あなたは、狂った神に殉じようとした。自分が奪った命に報いるために、国家という鎖に自らを縛り付けた」

エイダの瞳から、急速に光が失われていく。

「でもね、戌亥。……もう、誰の命令も残っていないわ。神も、国家も、今日で終わるの」

彼女は、最期の力を振り絞り、美しく、そしてどこまでも透き通った微笑みを浮かべた。

「あなたは……自由になれるわ」

その言葉を残し、エイダ・クロムウェルの腕がパタリと床に落ちた。

瞳の奥で瞬いていたサイボーグとしての命の光が完全に消え去り、アメリカの特務暗殺者は、静かに機能を停止した。

「……自由、だと」

戌亥は、エイダの亡骸を見下ろしたまま、その言葉を反芻した。

その瞬間。

戌亥のプログラムされた人工脳の最深部に、かつてない強烈なノイズが走った。

それは、システムのエラーではない。

『反逆者を排除せよ』という国家の命令でもなく、『自分が奪った命に報いなければならない』という過去への贖罪ですらない。

「命令ではない、純粋な『個人の意思』」

エイダの死がもたらしたその概念は、システムとして生きるサイボーグにとって、あまりにも恐ろしい『呪い』だった。

何のために生きるのか。誰のために戦うのか。

そのすべてを、もはや誰のせいにもできず、システムにも依存できず、自分自身の心で決断しなければならないという、途方もない孤独と重圧。

しかし同時に、それは彼が長年封じ込めてきた「人間性」を完全に取り戻すための、たった一つの『希望の種』でもあった。

「……俺が、自由に……」

戌亥の視界を覆っていた赤いエラーコードの向こう側で、命令に縛られていた鉄の心が、一個の人間としての魂の熱を帯びて脈打ち始めていた。

狂犬の首輪は、ここで完全に外れ落ちた。

残されたのは、己の生と死の選択権をその手に握りしめた、一人の傷だらけの男だけだ。

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