第88話 相反する二つの魂
メイン動力炉の空間に、ひび割れた流体金属が床に落ちて蒸発する凄惨な音が響いていた。
パイルバンカーの一撃を腹部に受けたエイダは、体勢を崩しながらも第4世代の修復機能を強制起動させていた。傷口から銀色の液体が泡立ち、強引に装甲を再構築していく。
「……信じられない。あなた、自分の動力炉(心臓)を完全に焼き切ってまで動いているのね」
エイダの声が、外部スピーカーと近距離通信の双方から、幾重にも重なって戌亥の脳内に響いた。
「狂っているわ。あなたの飼い主である木下は、今まさにあなたが守ろうとした市民たちを無差別に虐殺している。そしてあなたの神である犬養は、最初からこの国を海の底へ沈めるために作った。……あなたを縛るものは、もう何一つ残っていないのに!」
エイダは流体金属を両腕に纏わせ直しながら、血を吐くような戌亥の姿に、憐憫すら込めた視線を向けた。
「私たちアメリカは『個』の自由を信じている。システムが狂ったなら、システムを壊して新しい自分になればいい。それが生きるということよ。なのに、なぜあなたは自壊を望む狂った神の幻影に、そこまでして殉じようとするの!」
個人の意志と自由。国家という鎖からの解放。
それは、論理的に考えれば絶対的に正しい、新世界の価値観だった。
だが、戌亥迅という男の魂は、その正しさという光を真っ向から拒絶した。
「……自由、だと」
戌亥の口から、黒いオイルと赤黒い血が混ざった液体が吐き出された。
彼は、軋む右足を強引に踏み出し、ヤタガラス改の銃口を再びエイダへと向ける。
「そんな便利な言葉で、俺が今まで流させてきた血を……俺が殺してきた同胞たちの命の重さを、洗い流せると思うな」
戌亥の単眼レンズが、暗闇の中で呪いのように赤く燃え上がった。
「俺は、犬だ」
地を這うような、凄絶な咆哮だった。
「神が狂っていようが、舞台が泥舟だろうが関係ない! 俺は木下というちっぽけな権力のために戦っているんじゃない。俺がその手を血に染めてまで守り抜こうとした……『国家』という、あの市民たちが生きるための巨大な虚構のために戦っているんだ!」
組織に自己を捧げ尽くすという、泥臭く悲惨な狂気。
エイダには到底理解できないものだった。己の罪を背負い続けるために、あえて壊れゆくシステムと国家の最期を看取ろうとする戌亥の生き様は、合理的で自由な彼女の存在意義とは、根本から相反していた。
「……理解不能ね。そんな幻想のために、あなたはここで一人で死ぬというの」
「死んで、俺が奪った命に報いる。それが、俺の選んだ『自由』だ!!」
思想の相克は、これ以上の言葉を必要としなかった。
エイダの流体金属が、これまで以上の殺意を帯びて巨大な刃へと変貌する。戌亥の人工動力炉からは、限界を知らせる黒煙が激しく吹き上がっていた。
相反する二つの魂が、互いの存在を完全に消し去るために、再び正面から激突した。




