第86話 中枢への侵入者
第一階層・首相官邸地下、メイン動力炉区画。
新京という巨大な人工都市の全エネルギーを賄い、気象制御システムから治安維持局のメインフレームまで、すべてを駆動させている文字通りの「心臓部」である。
本来であれば、数百機の自律型多脚戦車と、幾重にも張り巡らされた高圧電流の防壁によって守られているはずの聖域。しかし今、酸性雨によるシステム崩壊と木下の狂乱によって、その防衛網は完全に死に絶えていた。
無数の冷却パイプから白い蒸気が噴き出し、非常用電源の薄暗い赤い光だけが、沈黙した警備ドローンの残骸を照らしている。
その巨大な扉を、物理的に溶断して侵入してきた者がいた。
アメリカ中央情報局(CIA)の特務サイボーグ、エイダ・クロムウェル。
彼女は、新京の崩壊を確実なものとし、木下政権に引導を渡すため、このメイン動力炉を直接破壊すべく単身で乗り込んできたのだ。
「……呆気ないものね。神が死に、システムが狂えば、この巨大な城もただのスクラップ置き場に過ぎない」
エイダは、足元のドローンの残骸を銀色のハイヒールで踏み砕きながら、巨大な動力炉のコアへと向かって歩みを進めた。彼女の第4世代流体金属装甲は、どんな熱も物理的衝撃も無効化し、優雅な足取りには一切の隙がない。
しかし、動力炉のコアへ通じる最後のブリッジに差し掛かった時。
彼女はピタリと足を止めた。
「……まだ、番犬が残っていたの?」
ブリッジの中央。
立ち上る白い蒸気の中に、漆黒の影が一つ、微動だにせず立っていた。
左腕の欠損を覆い隠すように『ヤタノカガミ』のマントを羽織り、右腕には鈍く光る試作型大口径拳銃『ヤタガラス改』。
暗部『鴉』の執行官、戌亥迅。
彼の単眼レンズが、赤い軌跡を残しながら、ゆっくりとエイダを捉えた。
「……待ちくたびれたぞ、エイダ」
戌亥の声は、動力炉の重低音に負けないほど深く、そして恐ろしいほどの静けさを保っていた。
「驚いたわ。あの酸の雨と軍の掃討網を抜けて、単独でここまで戻ってきたというの?」
エイダは、流体金属の両腕を鋭利なブレード状に変形させながら、美しい顔に冷たい笑みを浮かべた。
「でも、そのボロボロの体で何ができるのかしら。あなたの飼い主(木下)は、全市民を敵に回して狂乱している。国家という大義はとっくに消滅した。……それでもまだ、私を止める理由があるの?」
エイダの問いかけは、かつての死闘の時と同じだった。
国家という虚構に縛られる戌亥を、自由な「個」であるエイダが冷笑する。
だが、今の戌亥は、かつての「命令に従うだけの犬」ではない。
「……大義などない。命令もない」
戌亥は、ヤタガラス改の銃口をゆっくりとエイダへ向けた。
「俺はただ、俺の意志でここに来た。俺が今まで奪ってきた命の重さに……俺自身の手で決着をつけるためだ。お前たちの用意したシナリオ通りに、この国を終わらせたりはしない」
戌亥の言葉に、エイダは微かに目を細めた。
「個人の意志、ね。……いいわ。なら、その壊れかけの意志が、最新鋭のシステムにどこまで通用するか、試してあげる」
言葉の終わりすら待たず。
エイダの姿が、純粋なスピードによって視界から掻き消えた。
「……!」
戌亥の背後空間が歪む。エイダの流体金属ブレードが、無音で戌亥の首を刈り取りに来る。
だが、戌亥は振り返らなかった。
彼はヤタノカガミのマントを翻し、左肩の『欠損部』をあえてエイダの刃に晒した。
ギガァァンッ!!
ブレードがマントに触れた瞬間、ナノマシンが瞬時に硬化し、エイダの斬撃を完全に弾き返した。
「チッ……!」
驚愕するエイダ。
そのわずかな隙に、戌亥は超加速された右足を軸にコマのように反転し、ヤタガラス改の銃口をエイダの腹部に押し当てた。
チュイィィィンッ!!
圧縮された高出力レーザーが放たれる。
エイダは咄嗟に流体金属を盾にして防御するが、桁違いの熱量が盾を貫通し、彼女のボディをブリッジの端まで吹き飛ばした。
「……くッ」
エイダは空中で姿勢を立て直し、ブリッジの手すりに着地する。彼女の腹部の装甲は赤熱し、修復機能が追いついていない。
「……出力150%。なるほど、機体の寿命を削ってリミッターを外しているのね。狂気の沙汰だわ」
エイダは、自身の流体金属を鞭のように変化させながら、冷たく言い放つ。
「でも、所詮は旧式のパワーバカ。私の流体金属には勝てないわ!」
エイダの放った無数の銀色の鞭が、全方位から戌亥を襲う。
戌亥はヤタノカガミを展開し、光学迷彩で姿を消しながら、レーザーの乱射で鞭を迎撃していく。
蒸気が舞い、赤い非常灯が明滅する閉鎖空間。
通信のノイズも、第三者の介入も一切ない。
互いの装甲が軋み、金属が弾ける音だけが、崩壊する動力炉の奥深くに響き渡る。
二体の最高峰サイボーグによる一対一の死闘。
因縁の決戦の火蓋は、今、完全に切って落とされた。




