第85話 『鴉』の崩壊と孤絶(完)
新京の最下層、人工地盤ブロック『奈落』。
かつて瀬戸内海を埋め立てて造られたこの階層都市の、文字通りの土台である。
上層からの光は一切届かず、都市全体を支える巨大なチタン合金の柱と、無数の冷却パイプだけが幾重にも入り組む死の世界。気候制御システムの暴走により、ここには上層で溶け落ちた酸性雨と有害なヘドロが滝のように流れ込み、濃密な有毒ガスが充満していた。
その漆黒の闇の中を、一つの影が音もなく滑るように進んでいた。
『……』
戌亥迅は、左肩からすっぽりと羽織った戦闘用マント『ヤタノカガミ』の機能により、有毒ガスを完全に遮断し、自身の熱源と駆動音を風景と同化させていた。
残された右足が泥濘を踏みしめるが、足音すら鳴らない。
それはまさしく、死の国を往く孤独な死神の行軍だった。
ふと、戌亥は癖で通信回線のスイッチを入れようとし、その指を止めた。
(……そうか。もう、誰もいないんだったな)
今までなら、この不気味な静寂は、オペレーターである東雲の冷徹なナビゲートや、牡丹の場違いな軽口によって埋められていた。
「戌亥、前方に熱源だ」「アンタ、また無茶しとるやろ」。
そんなやり取りが、彼が「まだ世界と繋がっている」ことを証明する細い糸だった。
だが今は、完全なノイズしか聞こえない。
補給線は完全に断たれ、背中を預ける味方も、帰るべき場所も、とうの昔に失われた。
完全な単独。
この広大な階層都市の最下底で、今の彼を突き動かしているのは、自分自身の狂った人工動力炉の鼓動だけだ。
『Warning: Reactor Output 150%. Core Temperature Critical.』
網膜ディスプレイに、幾度目かの赤いエラーコードが明滅する。
東雲が施したリミッター解除の代償は、戌亥の機体を確実に内側から焼き切ろうとしていた。右足の人工筋肉からは常に焦げたような臭いが漂い、全身の神経回路を激痛のノイズが駆け巡っている。
活動限界まで、残り一時間を切った。
「……上等だ」
戌亥は、暗闇の中で低く独り言ちた。
かつての彼は、システムに「良心」という名のバグを抱え、命令に従って人を殺すたびに絶望し、苦しんでいた。国家の犬という首輪に縛られ、自分を殺して生きるしかなかった。
だが、今はどうだ。
システムは崩壊し、首輪は引きちぎれた。
孤独と引き換えに手に入れたのは、自らの命を、自らの意志で使い切るという「究極の自由」だ。
(……東雲。お前がくれたこの体、最後まで使い潰させてもらうぞ)
戌亥はヤタノカガミを翻し、さらに深く、最下層の中心部——新京全体を支えるメインピラーの基部へと足を踏み入れた。
そこは、異様な空間だった。
巨大な柱の周囲には、エイダ・クロムウェルが持ち込んだと思われる、無数の爆薬と起爆デバイスが幾重にも巻き付けられている。これが作動すれば、新京は物理的に完全にへし折れ、数百万の市民ごと海の底へと沈む。
犬養が望んだ「失敗作の国家」の、完全なる消滅。
「……来たわね、野良犬」
暗闇の奥。
メインピラーの前に設置された起爆コンソールの傍らに、ひとつの影が立っていた。
アメリカ中央情報局(CIA)の特務サイボーグ、エイダ・クロムウェル。
彼女の第4世代流体金属装甲が、有毒ガスの淀んだ空気の中で、滑らかに、そして妖しく銀色の光を反射している。
「……通信も切れ、片腕も失い、たった一人でここまで来るなんて。あなたを縛る神様はもう死んだのに、まだそんな壊れかけの体で、忠誠を尽くす気?」
エイダの冷ややかな声が、奈落の底に響き渡る。
戌亥は、光学迷彩を解除し、ヤタノカガミの下から、残された右腕で『ヤタガラス改』をゆっくりと抜き放った。
「忠誠など、とうの昔に捨てた」
戌亥の赤い単眼レンズが、暗闇の中で鮮烈な光を放つ。
「俺は、俺の意志でここに来た。……神の心中劇も、お前たちアメリカの思惑も、すべて俺がここで叩き潰す。俺が今まで奪ってきた命に……俺自身の手で、決着をつけるためだ」
エイダは、僅かに目を見開き、そして美しく、冷酷な笑みを浮かべた。
「……そう。なら、証明してみせなさい。あなたのその『個人の意志』が、どれだけの力を持っているのかを」
エイダの両腕が、鋭利な流体金属のブレードへと変形する。
対する戌亥は、ヤタガラス改の銃口を真っ直ぐにエイダへと向けた。
すべてを失い、たった一人となった狂犬。
自らの人間性と意志を取り戻したサイボーグと、国家の意思を体現する最新鋭の暗殺者。
崩壊寸前の新京の最下底で、ついに最後の死闘の火蓋が切られようとしていた。




