第82話 『鴉』の崩壊と孤絶(前編)
第五階層のシェルターに市民を逃がし、無人ドローン部隊の殲滅と引き換えに完全にシステムが沈黙した戌亥迅。
次に彼の単眼レンズが赤い光を取り戻した時、視界に映ったのは、薄暗い地下のガレージと、オイルと硝煙の入り混じった独特の臭いだった。
「……目覚めたか、バカ犬」
ノイズ混じりの視界の端に、工具箱を抱えた初老の男が立っていた。
国家治安維持局、暗部『鴉』の専用整備班長であり、戌亥の専属オペレーターでもある東雲だ。
「……ここは」
戌亥は、作業台の上に拘束されている自身の体を起こそうとした。だが、左腕は肘から先がなく、右足も分解された状態でケーブルに繋がれており、身動きが取れない。
「第三階層の『鴉』の予備本部だ。牡丹がお前をここまで担ぎ込んできた。あいつも限界だったからな、自分の応急処置だけ済ませて、今は別のエリアで防衛線を張っている」
東雲は、戌亥の右足の関節部にグリスを塗り込みながら、淡々と答えた。
「……本部は、どうなった」
「放棄されたよ」
東雲の口調は、ひどく乾いていた。
「木下の狂った『全市民攻撃命令』と、エイダのウイルスによるシステム崩壊。それが決定打になった。『鴉』の執行官たちは、もはやただの無差別虐殺を命じられるだけの肉挽き機に成り下がった。……それに耐えられず、数名が造反して革命軍に寝返り、残りは権藤の部隊や無人機との同士討ちで戦死した。……局長は、すでに高飛びしたらしい」
東雲の言葉は、国家の秩序を守るという大義名分のもとに設立された暗部『鴉』が、事実上、完全に消滅したことを意味していた。
「……残っているのは、お前と牡丹、そして私だけだ。……文字通り、ただの野良犬の集まりになっちまったな」
東雲は自嘲気味に笑い、戌亥の右膝の人工関節をバーナーで溶接し始めた。
「……なぜ、お前は残った」
戌亥は、赤い単眼レンズで東雲の横顔を見つめ、静かに問うた。
「俺はお前に、『逃げろ』と言ったはずだ。本部が崩壊したなら、お前もさっさと身を隠せばよかっただろう」
東雲はバーナーの火を止め、ゴーグルを額に押し上げた。彼の目尻のシワには、過労と絶望が深く刻まれている。
「……お前こそ、なぜ逃げない」
東雲は、工具を置き、戌亥の胸ぐらを軽く掴んだ。
「お前はもう、市民を守って戦った。木下の命令にも逆らった。十分すぎるほど、お前は自分の意志で戦ったじゃないか。……これ以上、この狂った国で、片腕のまま何と戦うつもりだ」
「……まだ、仕事が残っている」
戌亥は、視線を逸らさずに答えた。
「この国を裏から崩壊させようとしている、エイダ・クロムウェル。あいつを止める。……あいつが仕掛けた爆弾が、まだこの都市の深部に残っているはずだ。それを放置すれば、結局市民も、お前たちも死ぬ」
「お前一人で、あの最新鋭のサイボーグを相手にするというのか! そのボロボロの体で!」
東雲が激昂する。
「左腕の代替えパーツはもうない! 修復できるのは右足と、せいぜい剥がれた装甲板の継ぎ接ぎくらいだ! お前は兵器だ、システムと補給線がなければ戦えないんだぞ!」
「……知っている」
戌亥は、驚くほど穏やかな声で答えた。
「だから、今ここでお前に修理してもらう。……東雲。俺の最後のワガママに、付き合ってくれ」
その言葉に、東雲は息を呑んだ。
長年、戌亥をただの「兵器」として、あるいは「狂犬」として扱ってきた。戌亥自身も、決して感情を表に出さず、ただ命令に従う機械であろうとしてきた。
しかし今、目の前にいるのは、誰の命令でもなく、自らの意志で死地へ向かおうとしている、不器用な一人の「人間」の顔だった。
「……勝手にしろ」
東雲は乱暴にゴーグルを下ろし、再び溶接バーナーに火を入れた。
「ただし、条件がある。……私がこれから施す調整は、お前の生存確率を著しく下げる。それでも文句は言わんな?」
「ああ。好きにしろ」
東雲の施す、狂犬のための最後のチューニング。
それは、生存を前提としない、完全な「殺戮特化」への改造だった。
失われた左腕の修復を諦め、その分の電力を右足の人工筋肉と、人工動力炉へのリミッター解除に全振りする。これにより、機能は95%まで回復し、運動性能に至ってはこれまでの50%アップという、機体の耐久限界を完全に無視した超加速仕様となる。
「……それと、これを持っていけ」
東雲は、作業台の下から、厳重にロックされた漆黒のアタッシュケースを引きずり出した。
「兵器開発部が残していった、試作武装だ。お前が使っていた『ヤタガラス』の改修型……『ヤタガラス改』。実弾と、人工動力炉からのエネルギー供給による高出力レーザーの切り替えが可能になっている。これなら、弾切れの心配はない」
東雲がケースを開けると、そこには、これまでの無骨な拳銃とは違う、洗練された流線型のフォルムを持つ大型拳銃が収められていた。
「もう一つ。この『ヤタノカガミ』だ」
東雲は、ケースの底から、黒いレザーのような質感を持つマントを取り出した。
「光学迷彩機能と、酸や毒ガスなどの環境兵器に対する完全耐性を持つ戦闘用マントだ。……お前の、その無様な左腕の断面を隠すのにも、ちょうどいいだろう」
それは、死神の装束だった。
すべてを失い、たった一人で地獄へ向かう戌亥のための、最後の死装束。
「……恩に着る、東雲」
戌亥は、修復を終えた右腕でヤタガラス改を握りしめ、マントを左肩から深く羽織った。
完全な単独となった狂犬。
孤独な死神としての、最後の戦いが幕を開けようとしていた。




