第80話 狂犬・木下の意志(中編)
第一階層からの木下の絶叫がシステムに響き渡った直後。
復旧しかけていた新京のネットワークに、最高権力者からの『マスター・オーバーライド』が強制的に適用された。
『国家非常事態宣言発令。これより、政府への非協力者および上層階への接近を試みる全ての対象を、反逆者と認定する』
街頭のスピーカーから、無機質な合成音声が繰り返される。
それは、革命軍のみならず、酸性雨から逃れようとしていた一般市民までも十把一絡げに「テロリスト」と断定し、無差別に掃討するという狂気の宣言だった。
第四階層、地下鉄旧構内。
そこには、戌亥迅と御堂牡丹によって避難誘導された数百人の一般市民が、震えながら身を寄せ合っていた。
「……あの豚、とうとう頭のネジが完全に吹き飛びよったな」
牡丹が、非常用回線から流れる木下の命令を聞きながら、忌々しそうに舌打ちをする。
「……権力を維持するためなら、舞台装置(市民)ごと焼き払うか。……どうしようもない狂犬だ」
戌亥は、破損した右足を壁に押し付けながら、自身の単眼レンズを赤く発光させた。
木下の命令を受諾し、システムが再稼働を始める音が遠くから響いてくる。
酸性雨のダメージで機能不全に陥っていた治安維持局の『無人警備ドローン』部隊が、非常用電源と予備ネットワークを使って再起動したのだ。
敵味方識別論理(IFF)は完全に木下の狂気で上書きされ、彼らのセンサーは今や「軍に属さない全ての生命体」を排除対象としてロックオンしている。
ウィィィィィン……ッ!
不気味な駆動音と共に、地下鉄構内の入り口に、数十機の重装甲ドローンが姿を現した。
「ひ、ひぃぃぃッ!」
「助けて! 撃たないでくれ!」
ドローンの赤いセンサー光を浴びた市民たちが、パニックを起こして逃げ惑う。
だが、無人機に慈悲はない。容赦のない制圧射撃のトリガーが引かれようとした、その瞬間。
ズガァァァァァンッ!!
凄まじい衝撃音が構内に響き渡った。
戌亥迅の巨体が、市民たちとドローン部隊の間に割り込むようにして着地し、残された右腕のパイルバンカーを構えていた。
「……俺の後ろに下がれ」
戌亥は、ノイズ混じりの低い声で市民たちに告げた。
「戌亥! アンタのその体で、何十機も相手にできるわけないやろ!」
牡丹が『雷火』を抜き放ちながら叫ぶ。彼女もまた、電力を戌亥に分け与えすぎたせいで限界が近い。
「……牡丹。お前は市民を奥のシェルターへ誘導しろ。ここは俺が塞ぐ」
「アホか! 一人で死ぬ気か!」
「死なない」
戌亥は、単眼レンズの奥で、かつてないほど澄んだ赤い光を放った。
「俺は……狂った飼い主の命令には、もう従わない。俺は、俺の意志で、守るべきものを守る。……それが、俺の『番犬』としての戦いだ」
かつては、国家の秩序という虚構のために、ただ命令されるがままに無数の命を奪ってきた。
木下と同じように、手を血に染めることでしか存在を証明できなかった狂犬。
だが今、彼は自らの意志で首輪を千切り捨て、権力者のエゴに抗うために、血塗られた鉄の拳を振るうことを選んだのだ。
「……排除対象、確認。攻撃を開始する」
ドローン部隊が、一斉にレーザーとガトリング砲の銃口を戌亥に向けた。
ズドドドドドドッ!!
凄まじい弾幕が、戌亥の巨体を容赦なく打つ。
酸性雨で脆くなっていたチタン装甲が削り取られ、火花と黒いオイルが飛び散る。
痛覚センサーは遮断しているものの、システムが発するダメージアラートが視界を真っ赤に染め上げる。
(……俺は、番犬だ)
戌亥は姿勢を低く沈め、痛みを意思の力でねじ伏せると、弾幕の嵐の中へ、真っ直ぐに突進した。
「零式・重圧粉砕腕……ッ!!」
右腕のパイルバンカーが、推力機構の悲鳴と共に射出される。
極太の鋼鉄の杭が、先頭の重装甲ドローンを装甲ごと完全に粉砕し、爆発の衝撃で後続の数機を吹き飛ばした。
「ハァッ……!」
左腕を失っている戌亥は、反動で体勢を崩しかけるが、破損した右足を強引に地面に突き立てて踏みとどまる。
ドローンが放つレーザーが、戌亥の肩を焼き切る。
それでも彼は止まらない。残骸となったドローンの装甲板を奪い取り、それを盾にして次の弾幕を防ぐと、その重い質量そのものを武器にして、敵の群れへと肉薄していく。
「……お前らみたいなブリキのオモチャに、命の重さが分かるかよ……ッ!」
戌亥は、盾にした装甲板でドローンのセンサー部を叩き割り、剥き出しになった基盤に鉄の拳を叩き込んで破壊する。
泥臭く、不器用で、凄惨な肉弾戦。
だが、その背中は、かつて無差別に市民を虐殺していた「鴉」の猟犬のそれではない。
権力という狂気に抗い、弱き者たちを身を挺して守り抜く、一人の「戦士」の背中だった。
「……しゃあないな。ホンマ、手のかかる番犬やで」
牡丹は、戌亥の無茶な戦いぶりに呆れながらも、市民たちを奥のシェルターへと誘導し始めた。
第一階層で、自らの玉座を守るために全市民を敵に回した木下英雄。
第四階層で、自らの罪を贖うように、市民を守るために傷だらけの体を張る戌亥迅。
虚構の国家が崩壊していく中で、二人の狂犬は、完全に対極の道へと歩み出していた。




