第79話 狂犬・木下の意志(前編)
第一階層・首相官邸。
酸性雨が止み、溶けかかった新京の空に奇妙な静寂が訪れたのも束の間。官邸地下の緊急オペレーションルームには、再び絶望的な報告が次々と舞い込んでいた。
「総理! 第七階層から第八階層にかけて、小津家高が扇動する革命軍の主力が再結集しています! 治安維持局のシステムは未だ沈黙、ドローン部隊も制御不能! このままでは、数時間以内に上層階の中央官庁街が完全に突破されます!」
モニターに映し出されるのは、エイダ・クロムウェルから供与された重火器を手に、怒涛の勢いで上層へ向けて進軍を開始する数十万の群衆の姿だ。酸性雨を生き延びた彼らの目には、木下政権に対する抑えきれない憎悪と、革命の狂熱が宿っていた。
「……ナメ腐りおって。ワシの国で、ワシの玉座に向かって泥靴で上がり込んでくる気か」
木下英雄は、血走った目でモニターを睨みつけ、低く唸った。
彼の傍らには、急遽呼び出された二人の側近——内務大臣の石田光明と、新国防大臣の加藤が、青ざめた顔で直立不動の姿勢をとっていた。
「石田」
木下が、振り返りざまに内務大臣の名を呼ぶ。
「今すぐ『国家非常事態宣言』を発令しろ。全階層の通信網を強制的に間引きして、政府専用回線とプロパガンダ用のスピーカーだけを活かせ。小津の電波を完全に遮断し、ワシの声を全域に響かせるんだわ」
「そ、総理……ッ」
石田は、額に冷汗を浮かべながら震える声で反論を試みた。
「すでに気候制御システムの暴走と酸性雨で、都市インフラは限界を超えています! これ以上の非常事態宣言と強権発動は、かえって残った市民のパニックを煽るだけで——」
「パニックだと?」
木下は石田の胸ぐらを鷲掴みにし、ギリリと締め上げた。
「暴動が起きて、国が下から溶かされとるんだわ。これ以上のパニックがどこにあるっちゅうんだて! ワシの権力を脅かす奴らは、一人残らず潰さなあかんのだわ! お前は内務大臣だろうが! ワシの国を内側から食い破ろうとするダニどもを、法と権力で縛り上げんか!!」
「ヒッ……わ、分かりました! 直ちに、宣言の起案を……!」
石田は恐怖に顔を引きつらせ、木下の手から逃れるようにして端末へと走り去った。
「次だ、加藤!」
木下の矛先は、国防大臣である加藤へと向けられた。
「石田の非常事態宣言と同時に、『国家総動員法』の実行を命じる。軍の残存戦力をすべて上層階の防衛ラインに回し、上に登ってくる奴らは一人残らず射殺しろ!」
「そ、総動員法、ですか……!?」
加藤は目を丸くして、信じられないものを見るかのように木下を見た。
「し、しかし総理! 革命軍の数は数十万。さらに、その中には酸性雨から逃げ惑う一般市民も多数混在しています! 権藤の『金剛』部隊も甚大な損耗を出しており……ここで軍の全力を投入し、無差別な掃討を行えば、それこそ軍の存在意義である『国民の保護』が根底から覆ってしまいます!」
かつて柴田勝馬という偉大な軍人が国防大臣であった頃なら、このような無差別虐殺命令は絶対に弾かれただろう。加藤は柴田ほどの矜持を持たない小物だが、それでも「全市民を敵に回す」という木下の狂気には、足の震えが止まらなかった。
「……加藤。お前、ワシがなんのために柴田を消して、お前をその椅子に座らせたか分かっとるか?」
木下は、氷のように冷たい目で加藤を見下ろした。
「国民の保護だ? 存在意義だ? 笑わせるな。この国でワシより偉いもんはおらんのだわ。ワシの命令に従わん国民は、全部政府への『反逆者』だ! 暴徒も、それに巻き込まれとる市民も関係ない! ワシの玉座を脅かす奴らは、全員まとめてテロリストとして処理しろと言っとるんだがや!!」
「そ、総理、しかしそれは……!」
バンッ!!
木下がホルスターから抜いた拳銃の銃床で、加藤の顔面を容赦なく殴りつけた。
「ガハッ……!」
加藤は鼻血を吹き出し、床に無様に崩れ落ちる。
「口答えするな、能無しが。ワシが撃てと言ったら、赤ん坊だろうが老人だろうが撃つのが軍隊だろうが。ワシの国を守るために、軍を総動員して、向かってくる奴らを全部肉の壁に変えろ! それができんのなら、今ここでお前を反逆罪で射殺して、ワシが直接軍の指揮を執るぞ!」
銃口を眉間に突きつけられ、加藤は恐怖で失禁しそうになりながら、何度も首を縦に振った。
「や、やります! 直ちに、軍の全権を以て、全市民……いや、全反逆者への無差別攻撃を命令しますッ!!」
「……それでええ。さっさと持ち場に戻れ」
木下は銃を収め、再びモニターへと向き直った。
彼の目は、狂気に支配されながらも、権力という魔物に憑かれた者特有の、異様な輝きを放っていた。
かつて犬養が夢見た理想の国家は、完全に死んだ。
だが、木下にとってそんなことはどうでもよかった。彼にとって重要なのは、自分が血反吐を吐いて這い上がり、ついに手に入れた「新京」という巨大な舞台(権力)を、何があっても絶対に手放さないことだけだった。
「……ワシの舞台だ。ワシの国だ。誰にも渡さん……ッ」
権力を守るためならば、全市民を敵に回し、国そのものを灰燼に帰すことすら厭わない狂犬。
木下英雄の狂気の命令が、今、新京の最終防衛ラインへと下されようとしていた。




