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鋼の狂犬  作者: 八咫 日本


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第8話 上層区の裏切り者

 新京という都市は、空すらも階級によって切り分けられている。

 酸性雨と煤煙に覆われた下層区から遥か上空。分厚い人工雲の層を突き抜けた先にある上層区には、疑似太陽の暖かな光と、徹底的に濾過された無臭の空気が満ちていた。

 上層区の中央にそびえ立つ、超高級タワーマンション『バベル』の最上階。

 新京の防衛システムを統括する高級官僚のペントハウスは、下層区の人間が一生かかっても稼げないほどの富で装飾されていた。床には毛足の長い本物のペルシャ絨毯が敷かれ、壁には旧時代のヨーロッパで描かれた本物の油絵が飾られている。空気清浄機からは、微かに高級な香木の匂いが漂っていた。

 だが今夜、その豪華絢爛な空間は、異様な緊張感に包まれていた。

 官僚の裏切り――小津亡命政府への防衛データ横流し――が、ついに治安維持局に露見したのだ。身の危険を察知した官僚は、私財を投げ打って裏社会から数十名の企業警備員コーポレート・ガードを雇い入れ、自身の部屋を要塞化していた。

「各員、油断するな。来るのは『鴉』だ。単なる警官じゃない、バケモノだと思え」

 タクティカルギアと重装甲に身を包んだ警備員のリーダーが、無線で部下たちに指示を飛ばす。彼らは暴動を起こすような烏合の衆とは違う。全員が軍事訓練を受けたプロフェッショナルであり、死角をカバーし合う完璧なフォーメーションでフロアを巡回し、自動防衛ドローンが赤外線センサーで室内のあらゆる温度変化を監視していた。

 完璧な布陣。しかし、彼らは『空間そのもの』を疑うべきだった。

 大理石の廊下。最後尾を歩いていた警備員一人の背後に、空間の歪みが陽炎のように発生した。

 治安維持局の最新装備、光学迷彩マント。

 風景と同化していた戌亥迅が、音もなく実体化する。彼の無機質な銀色の指が、警備員の口を背後から塞ぎ、同時に首の頸椎を正確な角度で捻り折った。

 ゴキッ、というくぐもった音。悲鳴を上げる隙すら与えず、戌亥は崩れ落ちる死体の重量を支え、床に音を立てずに横たえた。

 一人、また一人。

 戌亥は迷彩マントの機能を駆使し、タワーの外壁からガラスを切り裂いて侵入して以来、完全に気配を絶ったステルス戦術で警備員たちを間引いていた。廊下の角を曲がる一瞬の死角を突き、鋭利なコンバットナイフで喉笛を掻き切る。あるいは、背後からのチョークスリーパーで意識を刈り取る。

 彼らは訓練されたプロであったが故に、マニュアル通りの巡回ルートを外れなかった。それが戌亥にとっては、規則的に並べられた的を順番に処理するだけの単純作業となっていた。

 だが、八人目を処理した直後、室内に警報が鳴り響いた。

 天井を巡回していた自動防衛ドローンが、床に落ちた血だまりの温度変化を感知したのだ。

「侵入者だ! Dポイント、迎え撃て!」

 光学迷彩の隠密行動はこれまでだ。

 戌亥はバッテリーの切れた迷彩マントを無造作に脱ぎ捨て、漆黒のハーフコート姿を顕にした。

「撃てえッ!」

 警備員たちが一斉にアサルトライフルを構え、銃弾の雨を降らせる。

 戌亥は近くにあった純白のシルクソファを蹴り飛ばして弾除けにし、コートの奥から大口径対装甲拳銃『ヤタガラス』を引き抜いた。

 ここからは、正面突破の強襲任務である。

 戌亥が物陰から飛び出し、ヤタガラスの引き金を引く。轟音と共に放たれた徹甲弾が、先頭にいた警備員の防弾シールドごと上半身を粉砕した。

「怯むな! 制圧射撃カバリング・ファイア、フラッシュバン投擲!」

 警備員たちはすぐさま散開し、戌亥の視界を奪うべく閃光手榴弾を投げ込んできた。

 爆発的な閃光と轟音。だが、戌亥の機械脳は瞬時に網膜カメラの遮光フィルターを展開し、聴覚センサーの入力をカットすることでその効果を完全に無効化した。

 フラッシュバンの煙を突き破り、戌亥が突進する。

 重武装の警備員三人が、通路を塞ぐようにして分厚い合金製のタワーシールドを構えていた。ヤタガラスの徹甲弾でも、三枚重ねのシールドを完全にぶち抜くのは難しい。

 戌亥は銃を収めず、整備室で換装したばかりの真新しい左腕を前方に突き出した。

 関節部から、カシャッ、と装甲がスライドする音が響く。

 展開されたのは、東雲が組み込んだ新兵装『左腕内蔵型・対装甲散弾機構』だった。手首の奥に仕込まれた大口径の砲門が、警備員たちのシールドに密着する。

「吹き飛べ」

 戌亥の無感情な声と共に、左腕から凄まじい爆発が放たれた。

 近距離用の指向性散弾。無数のタングステン球が極超音速で射出され、合金製のシールドを紙のように細切れに引き裂いた。シールドの後ろにいた警備員たちは、全身をハチの巣にされて廊下の奥へと吹き飛ばされる。

 圧倒的な暴力の嵐が、ペントハウスを蹂躙していく。

 ヤタガラスと左腕の散弾が火を噴くたびに、数千万クレジットの価値があるルネサンス期の絵画が引き裂かれ、バカラクリスタルのシャンデリアが粉々に砕け散った。

 純白の大理石の床は、飛び散る薬莢と、プロの傭兵たちの血肉で泥沼のように汚されていく。スラム街の悪臭とは違う、高級な香水と硝煙の匂いが混ざり合った、酷く歪な死の匂いが充満していた。

「ば、化け物が……っ!」

 最後に残った警備員のリーダーが、ヤタガラスの一撃で腹を吹き飛ばされ、絶望の表情を浮かべて息絶えた。

 これで、護衛はゼロだ。

 戌亥は血に濡れたブーツを引きずりながら、フロアの最奥、頑丈なロックが施された寝室のドアの前に立った。

 左腕の散弾機構をドアの電子錠に押し当てて粉砕し、強引に蹴り破る。

「ひぃっ……!」

 部屋の隅で、豪華なバスローブに身を包んだ初老の男が、腰を抜かして震えていた。新京の防衛システムを売り渡そうとした裏切り者の高級官僚だ。

「ま、待て! 殺さないでくれ!」

 男は床を這いずりながら、戌亥の黒いコートの裾にすがりついた。

「金ならある! スイスの隠し口座に、お前が十回生まれ変わっても使い切れないほどのクレジットがあるんだ! それをお前にやる! 女も、身分も、全部用意してやる!」

 男の顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。数時間前まで、安全な高層階から下層の人間を虫けらのように見下ろしていた男の無惨な末路だった。

「小津の政府が来れば、この国は終わりだ! 沈む船から逃げ出して何が悪い! お前だって、こんな狂った国家に犬として使い潰されたくはないだろう!?」

 それは、彼なりの必死の生存戦略だった。

 だが、戌亥の端正な人工の顔には、一片の揺らぎも生じなかった。

 彼の瞳は、床に散らばった金塊を見るのと同じ冷たさで、足元で命乞いをする男を見下ろしている。

「俺は、国家のシステムだ。システムは、賄賂を受け取らない」

 底冷えのする無機質な宣告。

 戌亥は男の言葉を完全に遮断し、ヤタガラスの銃口をその頭部に押し当てた。

「や、やめっ――」

 轟音。

 男の頭部が弾け飛び、最高級のシルクのベッドシーツに、どす黒い染みが一瞬にして広がった。

 任務完了。

 戌亥は静かにヤタガラスをホルスターに収めた。

 窓の外では、疑似太陽の光が消え、新京の上層区に人工的な夜が訪れようとしていた。血と硝煙に塗れた豪華絢爛な部屋の中で、戌亥は一人、次なる任務の指示を待つためにただ静かに佇んでいた。

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