第76話 虚構で生きる犬たち(1)
赤いエラーコードとけたたましい警報音が、第一階層・首相官邸地下の緊急オペレーションルームを埋め尽くしていた。
分厚い防爆ガラスの向こうのモニター群には、暴走した天候コントロールシステムが吐き出す「人工酸性雨」によって、新京の誇る無菌の摩天楼がドロドロに融解していく地獄絵図が映し出されている。
「総理! ダメです、メインフレームへのアクセスが完全に弾かれます! エイダ・クロムウェルの放ったウイルスが深層部を焼き切っており、論理的な制御は一切不可能です!」
「第三データセンターからのレスポンスもゼロ! このままではあと数時間で、都市の基幹構造そのものが酸で溶け落ちます!」
オペレーターたちの悲鳴じみた報告が飛び交う中、内閣総理大臣・木下英雄は、コンソールの前に立ち尽くし、ワナワナと肩を震わせていた。
「……ふざけるな」
木下の口から、地を這うような低い声が漏れた。
「ワシの……ワシの国だがや。ワシが頂点に立った、この国が……なんで溶けなあかんのだて!!」
ガンッ!!
木下は近くの端末を蹴り飛ばし、血走った目でシステム管理の責任者を睨みつけた。
「いつまでモニターの前でカタカタやっとるんだわ! 論理制御が無理なら、物理的に止めんか! 第四階層にある気象プラントのメインケーブルを、斧で叩き切ってでも止めるんだわ!!」
「そ、総理! 無茶です!」
責任者が青ざめた顔で立ち上がる。
「気象プラントは現在、システム暴走による高濃度の有毒ガスと酸性雨で完全に汚染されています! さらに、暴走した防衛ドローンが周囲を徘徊しており……生身の実行部隊を向かわせれば、全滅は免れません! それに、メインケーブルを物理切断すれば、新京の気象は永久に復旧できなくなる可能性が——」
「復旧できんで上等だがや!!」
木下の怒号が、オペレーションルームの空気をビリリと震わせた。
パニックに陥った無能な政治家の叫びではない。かつて、犬養の命を受けて数々の政敵を物理的に葬り去ってきた、党親衛隊隊長としての血生臭い威圧感が、その声には宿っていた。
木下は、震える責任者の胸ぐらを掴み上げ、その顔をギリギリまで引き寄せた。
「ええか。ワシは中卒のチンピラだった。泥水すすって、裏街でゲロ吐きながら這いつくばっとったワシを……犬養先生が拾ってくれたんだわ。先生はワシに、『力』をくれた。ワシの狂気(暴力)を肯定して、この国の屋台骨を支える汚れ仕事を任せてくれた!」
木下の濁った瞳の奥に、かつての偉大なる指導者への、決して消えることのない狂信的な忠誠の炎が揺らめいていた。
「先生は病に倒れられたが……この国は、先生がワシらに残してくれたたった一つの『夢』なんだて。ワシがトップに立って、この夢を完璧なものにしてやらなあかんのだわ。それを……得体の知れんアメリカのスパイや、小津の亡命野郎どもに、勝手に終わらされてたまるか!!」
木下は責任者を乱暴に突き飛ばし、ルーム内に整列していた自身の直属の親衛隊(実行部隊)の隊員たちをねめつけ、言い放った。
「お前ら、ワシと一緒に数え切れんほどの血を流してきたな。今こそ、その命を国に還元する時だわ。気象プラントへ突入し、制御ブロックを物理的に爆破しろ。……ええな。これはお願いじゃない。ワシからの『絶対命令』だ。行かん奴、逃げる奴は、この場でワシが全員撃ち殺す」
木下は腰のホルスターから拳銃を抜き放ち、安全装置を外した。
情けないだけの傀儡ではない。自らの権力と、犬養への忠誠、そして這い上がってきた自身の生き様を守るためならば、どれほどの犠牲を払うことも厭わない絶対的権力者の凄みが、そこにはあった。
「……は、はいッ!! 直ちに決死隊を編成し、プラントへ向かいます!」
隊長が敬礼し、数十名の実行部隊が重武装と防毒装備を固めてオペレーションルームを飛び出していく。
「……頼むぞ。ワシの舞台を、勝手に幕引きさせはせんわ」
木下はモニターに映る溶けゆく新京を見つめながら、己の権力への執着を、刃のように鋭く研ぎ澄ませていた。
酸性雨を止めるための、命を賭した決死のミッションが、今まさに始まろうとしていた。




