第75話 崩壊の酸性雨(終編)
致死性の人工酸性雨は、いよいよ新京の階層構造そのものを物理的に融解させ始めていた。
上層の富裕層エリアを支えていたチタン合金の支柱は飴細工のように曲がり、頭上の天蓋からは、崩落したコンクリートの巨大な塊が轟音と共に落下してくる。
完璧な無菌状態と温度管理を誇ったユートピアは、今や毒の雨と瓦礫が降り注ぐ「滅びのるつぼ」と化していた。
装甲車の残骸が散乱する第五階層の幹線道路。
そこを、二つの傷ついた機械が寄り添うように歩いていた。
右足を砕かれ、牡丹の肩を借りて引きずるように進む戌亥迅。そして、自身の電力を戌亥に分け与え続け、限界ギリギリの駆動音を響かせる御堂牡丹。
「……前方に熱源反応。権藤の『金剛』部隊の残存と……反乱軍の主力だ」
戌亥が、ノイズだらけの単眼レンズで前方の交差点を捉え、低く告げた。
交差点では、酸性雨に装甲を溶かされながらも、互いを完全に殲滅するまで止まらない狂気の戦闘が続いていた。
権藤の放つ六銃身ガトリングが、反乱軍の肉体ごとアスファルトを削り取る。反乱軍もまた、死体の山を盾にしながら、最後のロケット弾を権藤の部隊へと撃ち込んでいる。
「……もう、どっちも狂っとるな。システムが死んで、命令の更新もされへんのに、ただ目の前の敵を殺すことしか考えとらん」
牡丹が『雷火』の残弾を確認しながら、自嘲気味に呟いた。
「俺たちも、同じだ」
戌亥は、牡丹の肩からゆっくりと離れ、自立しようと残された右足のシリンダーに強引な圧力をかけた。
バキィッ、と嫌な音が鳴るが、無理やり姿勢を維持する。
「……戌亥?」
「俺の初期命令は、『反逆者の排除』だ。……牡丹。あれを見ろ」
戌亥が指差した先。
激戦の交差点の片隅で、崩落したビルの瓦礫の下敷きになり、酸性雨から身を寄せ合って震えている数名の「一般市民」の姿があった。
暴動にも参加せず、ただ逃げ遅れただけの無抵抗な人々。しかし、狂乱状態にある反乱軍と権藤の部隊が放つ無差別な流れ弾が、容赦なく彼らの周囲のコンクリートを削り取っている。
「……あいつらは、国家の敵じゃない」
戌亥の赤い単眼レンズが、静かに発光した。
「だが、権藤や反乱軍にとっては、もはやただの的だ。……俺は、あれを許容できない」
かつて戌亥は、「大国葬」の夜に、システムの命令に従って無抵抗の市民を殺した。
しかし今、システムは完全に崩壊した。彼を縛る「神の命令」は、もうどこにも存在しない。
彼の中に残っているのは、かつて純粋に国家の秩序と市民を守ろうとしていた、狂う前の自分が持っていた「犬としての本能」だけだった。
「……ホンマ、世話焼ける迷い犬やで」
牡丹は小さく息を吐き、二丁の『雷火』を構えた。
「しゃあない。あのガレキの下の連中を安全圏まで逃がす。それが終わったら、ウチらも地下へ退避や。ええな?」
「……ああ」
戌亥は、パイルバンカーの推力機構を限界までオーバーライドさせた。右腕から黒煙が噴き出す。
「行くぞ!」
二人は同時に、酸性雨の降る交差点へと飛び出した。
牡丹が驚異的なスピードで弾幕の嵐の中を駆け抜け、『雷火』の精密射撃で権藤の部隊のセンサーを次々と破壊して注意を引きつける。
「所属不明機! 排除する!」
権藤のガトリングが牡丹を追って火を噴く。
その隙を突き、戌亥は瓦礫の下敷きになっている市民たちの元へと足を引きずって接近した。
「ひ、ひぃぃッ! ば、バケモノ……殺さないでくれ!」
黒焦げの片腕のサイボーグを見て、市民たちが悲鳴を上げる。
「……立て。西の地下鉄構内へ走れ。あそこなら、雨は凌げる」
戌亥は、無機質な声で告げると、自身の巨体を市民たちの前に投げ出し、迫り来る反乱軍の銃弾と、権藤のガトリングの跳弾を、その背中で一手に引き受けた。
ガガガガガガッ!!
「グゥゥッ……!」
酸で脆くなっていた背部の装甲が完全に吹き飛び、人工脊髄が剥き出しになる。
激痛のノイズが脳を焼き切ろうとするが、戌亥は一歩も退かなかった。
「は、走れ! あいつが盾になってる間に!」
市民たちがパニックを起こしながら、地下への入り口へと全速力で駆け出していく。
その光景を、ガトリングを構えた権藤が捉えた。
「……戌亥迅。貴官の行動は、論理的に破綻している。なぜ、排除対象ではない一般市民を庇う?」
権藤のシステムには、「市民を守る」という概念はとうに存在しない。
「……黙れ、ポンコツが」
戌亥は、背中から白煙を吹き出しながら、右腕のパイルバンカーを権藤へと真っ直ぐに向けた。
「俺は、俺の守りたいものを守る。……それが、俺の自由だ!!」
ドガァァァァァァンッ!!
残された最後の火薬カートリッジが炸裂した。
極太の鋼鉄の杭が、酸性雨を切り裂き、権藤のガトリング砲の砲身を根元から完全に粉砕する。
「……機能不全、確認。戦闘継続、不可」
権藤は腕を失い、静かにその場に沈黙した。
「戌亥ッ!」
市民の避難を見届けた牡丹が、崩れ落ちそうになる戌亥を間一髪で支えた。
「……終わったぞ、牡丹」
戌亥の視界は、ついに完全に暗転しようとしていた。
「アホ。まだや。ここから地下まで、アンタを引きずっていく残業が残っとるんやからな」
牡丹は軽口を叩きながらも、その声は微かに震えていた。
酸性雨が新京を溶かし尽くしていく中。
システムが崩壊し、狂気が支配する終末の情景の中で、一匹の狂犬は最後に「命令」ではなく、自らの「意志」で人を守り抜いた。
その代償として完全に機能を停止した戌亥を抱え、牡丹は崩壊する階層都市のさらに深い闇へと、姿を消していった。




