第74話 崩壊の酸性雨(後編)
『System Failure. Complete Shutdown in T-minus 10 seconds.』
泥水に顔を沈めた戌亥迅の人工脳内で、絶望的なカウントダウンが響き渡る。
9、8、7……。
酸性雨は彼の剥き出しの人工筋肉を無慈悲に溶かし、もはや指一本動かすことすら不可能だった。
右足は完全に砕け散り、左腕はとうの昔に失われている。
反乱軍の姿はすでに酸の雨の向こうへと消え去り、周囲には静寂と、都市が溶けていく不気味な溶解音だけが残っていた。
6、5、4……。
(……終わりか)
戌亥は、泥に塗れた赤い単眼レンズの光を弱めながら、ゆっくりと機能停止を受け入れようとしていた。
虚構の国家。狂った神。豚のような独裁者。そして、無数の無実の血を啜ってきた自分自身。
すべてが酸に溶けて消えていく。この狂気の世界からようやく解放されるのだという、微かな安堵が彼の意識を包み込もうとした。
その時だった。
「……勝手に終わろうとすな、アホ犬」
ズガァァァンッ!!
空を裂くような轟音と共に、戌亥の横の泥水が凄まじい水柱を上げて吹き飛んだ。
水飛沫と酸の雨を切り裂いて、空から銀色のシルエットが落下してくる。
御堂牡丹だった。
彼女の美しいチタン合金のボディも、酸性雨によって各所が黒く焼け焦げ、関節部からは不気味な白煙が上がっていた。彼女は着地と同時に強引に戌亥の巨体を抱き起こし、残骸となった装甲車の下の、わずかに酸性雨を凌げるスペースへと引きずり込んだ。
「……牡丹。なぜ、来た」
戌亥の音声回路は半分焼け落ちており、ノイズ混じりの微かな声しか出せない。
「通信切られてブチ切れたから、わざわざ殴りに来たんや。……ホンマ、世話焼かせるわ」
牡丹は荒い息を吐きながら、自身の右腕から強引にケーブルを引き抜き、戌亥の首筋のアクセスポートへと直接接続した。
『Warning: Unauthorized External Access. Power Supply Overriding.』
3、2、1……で停止しかけていた戌亥のカウントダウンが、牡丹から直接流れ込む莫大な電力によって強制的にリセットされる。
「バカな……そんなことをすれば、お前の動力炉がイカれるぞ!」
戌亥が警告するが、牡丹は飄々とした笑みを浮かべたまま、ケーブルを強く押し込んだ。
「ウチの動力炉は第3世代の最新チューンや。アンタみたいな燃費の悪い旧式と違って、まだ余裕あるんよ。……それに、アンタにここで死なれたら、ウチが一人でこの地獄の始末せなあかんやろ」
牡丹から供給される電力と、強制的なシステム・リブートにより、戌亥の視界の赤いエラーコードが徐々に晴れていく。
だが、物理的な損傷が回復したわけではない。彼は相変わらず片腕と片足を失った、完全なポンコツのままだった。
「……無駄だ、牡丹。俺はもう戦えない。国も、システムも、もう終わる。……俺を置いて、逃げろ」
戌亥は、絞り出すように言った。
それは、彼が初めて他者に対して見せた、完全なる諦念だった。犬としての命令を実行できなくなった今、自分にはもう何の価値もない。
しかし、牡丹は容赦なく、戌亥の泥だらけの頬を鉄の拳で殴りつけた。
ガキィッ! という鈍い音が響く。
「……痛えな」
「痛覚回路切っとるくせに嘘つくな」
牡丹は、戌亥の胸倉を掴み上げ、赤い単眼レンズを真っ直ぐに睨み据えた。
「ええか、戌亥。国が虚構やろうが、システムが壊れようが、そんなもん知ったこっちゃない。ウチらが犬なのは、首輪が繋がっとるからやない。……ウチらが今まで、犬としてしか生きられんような泥水(血)を、二人で一緒に啜ってきたからや」
牡丹の言葉が、酸性雨の音を切り裂いて戌亥の胸に突き刺さる。
「アンタが背負っとるその『バグ(罪悪感)』も、今更死んで楽になろうとしとるその逃げ腰も……全部、ウチが半分持ったる。だから、勝手に一人で死ぬな。……ウチを、一人残すな」
普段の軽口の裏に隠された、戦友としての悲痛な叫び。
地獄の底で背中を預け合ってきた、殺戮者同士の究極の共依存。
戌亥は、牡丹の言葉に打たれ、単眼レンズの奥で微かにシステムを明滅させた。
(……ああ、そうか。俺は)
国家のために戦っていたのではない。神の命令だから殺していたのではない。
ただ、隣にこいつがいたから。
二人で狂った世界を並んで歩くために、犬の皮を被り続けていただけだったのだ。
「……立てるか、迷い犬」
牡丹が、差し出した手を戌亥の右腕に絡めた。
「……ああ。まだ、少しだけな」
戌亥は、牡丹に支えられながら、砕けた右足を引きずってゆっくりと立ち上がった。
酸性雨は容赦なく降り注ぎ、二人の装甲をジリジリと溶かし続けている。外の世界では、狂乱の三つ巴がまだ続いているのだろう。
だが、戌亥の人工脳内にあった絶望的なエラーコードは、もう消え去っていた。
「……行くぞ、牡丹。狂った神様の泥舟が沈みきるまで、最後まで付き合ってやる」
「おおきに。ほな、二人で地獄の底までパレードや」
満身創痍の二匹の猟犬は、互いを支え合いながら、すべてが溶けていく酸性雨の中へと、再び歩み出していった。




