第73話 崩壊の酸性雨(中編)
ジュゥゥゥゥッ……!!
人工酸性雨は、時間を追うごとにその濃度と破壊力を増していた。
かつては富裕層が優雅に空を眺めていた第十階層のテラスは、ドロドロに溶けたガラスとコンクリートの沼と化し、最新鋭のホログラム広告はショートして不気味なノイズと明滅を繰り返している。
「あ、ああ……肌が、溶ける……ッ!」
「助けてくれ! 誰か、薬を……!」
酸性雨の直撃を受けた市民たちが、皮膚を爛れさせながら瓦礫の陰へと這いずり込んでいく。完全な無菌状態と温度管理に守られてきた新京の住民たちにとって、この致死性の豪雨はあまりにも無慈悲な死の宣告だった。
その地獄絵図の中を、戌亥迅はただ黙々と進んでいた。
左腕の欠損部からは漏れ出したオイルが酸と反応して不気味な白煙を上げ、右足は膝関節の装甲が完全に溶け落ちて内部のシリンダーが剥き出しになっている。一歩踏み出すたびに、火花とギシギシという金属の軋轢音が響く。
「……敵影、確認。反乱部隊、約三十」
戌亥の赤い単眼レンズが、前方のビル跡地に身を潜める完全武装の反乱軍を捉えた。
彼らもまた酸性雨を避けるために瓦礫の下に固まり、震えながら防毒マスク越しに荒い息を吐いている。
『戌亥! 聞いとるか、戌亥!』
ノイズだらけの近距離通信から、牡丹の焦燥しきった声が響く。
『いい加減にせぇ! アンタのバイタル、もうマイナス振り切っとるやないか! その装甲じゃ、あと数分で酸が動力炉に到達するで!』
「……問題ない。まだ動く」
戌亥は、足を引きずりながら反乱軍の潜む瓦礫へと真っ直ぐに向かっていく。
『意地張っとる場合か! 権藤のバカ部隊も、暴走したドローンどもも、酸性雨のせいで機能不全に陥り始めとる。……この戦場はもう、システムが強制終了させたんや! アンタ一人で掃除できる規模やない!』
「牡丹」
戌亥は、一切の感情を排した低い声で遮った。
「俺の視界には、まだ国家の敵が映っている。なら、排除する。それが俺の機能だ」
『アホか……ッ! アンタは機械やない、人間やろが!』
「俺は、犬だ」
通信回線を、自らの意志で物理的に遮断した。
プツン、という音と共に、世界から牡丹の声が消え、降りしきる酸性雨の音と、自身の限界を告げるアラート音だけが残る。
(人間、だと?)
戌亥は、酸で溶けかけた唇を歪め、自嘲の笑みを浮かべた。
人間であれば、どれほど良かっただろうか。人間であれば、この国が失敗作だと知った時点で、絶望して逃げ出すか、小津たちのように革命に身を投じることができただろう。
だが、自分はサイボーグだ。
国家の秩序を守るためだけに、自らの人間性を削り落とし、同胞の血をすすってきた化け物だ。
「良心」という名のバグがどれだけ痛みを訴えようとも、その痛みを抱えながら命令を実行し続けることしか、自分には許されていない。ここで人間になど戻れば、これまでに殺してきた者たちの命の重さに、精神が完全に圧殺されてしまう。
「……来るぞ! 『鴉』の猟犬だ!!」
瓦礫に潜んでいた反乱軍の一人が、戌亥の接近に気づいて絶叫した。
恐怖に引きつった顔で、一斉にアサルトライフルとグレネードランチャーの銃口が向けられる。
「撃てッ! バケモノを近付けさせるな!」
ズドドドドドドッ!!
ドガァァァァンッ!!
激しい十字砲火と爆発が、戌亥の巨体を包み込む。
チタン装甲はすでに酸性雨で脆くなっており、数発の銃弾が貫通して人工筋肉を容易く引き裂いた。爆風で吹き飛ばされ、戌亥は泥水の中へと無様に転がる。
「……ハァ、ハァ……」
視界が、真っ赤なエラーコードとノイズで完全に埋め尽くされる。
(……立て)
戌亥は、残された右腕を地面に突き立て、強引に体を持ち上げた。
「まだ動くのかよ……バケモノめ!」
反乱軍の兵士が、半狂乱になって引き金を引き続ける。
「……排除、する」
戌亥は、欠損した左腕の断面から火花を散らしながら、一歩、また一歩と前進した。
右腕のパイルバンカーは、酸による腐食と先の激戦により、すでに射出機構が完全にイカれている。ヤタガラスの弾薬もない。
今の戌亥にあるのは、ただ歩み寄り、その鉄の塊のような右拳で敵を殴り殺すという、極めて原始的な暴力への意思だけだった。
「ひ、ひぃぃ……ッ!」
弾薬を撃ち尽くした反乱軍の兵士が、恐怖で後ずさりし、瓦礫に足を滑らせて尻餅をつく。
戌亥は、その兵士の胸ぐらを右の鉄腕で掴み上げ、無造作に首の骨をへし折った。
ボキリ、という鈍い音が響き、兵士の体が力なく崩れ落ちる。
「……次だ」
戌亥は、虚ろな単眼レンズを次の敵へと向けた。
「化け物だ……こいつ、絶対に死なねえんだ……!」
反乱軍の士気は完全に崩壊した。圧倒的な物量と火力を持ちながら、ただ命令のままに肉薄してくる片腕の狂犬の前に、彼らはパニックを起こして四方八方へと逃げ出し始めた。
戌亥は、逃げ惑う彼らを追おうと右足を踏み出した。
だが、その瞬間。
バキィィィンッ……!!
限界を超えていた右足の膝関節が、ついに自重と酸の腐食に耐えきれず、完全に砕け散った。
「……ガハッ!」
戌亥は、顔面から泥水の中へと激しく倒れ込んだ。
(……動け。動け、俺の体……)
右腕を使って這いずろうとするが、人工動力炉からは真っ黒な煙が上がり、人工脳は完全にシャットダウンのカウントダウンを開始していた。
『System Failure. Complete Shutdown in T-minus 10 seconds.』
無機質なシステム音声が、終わりを告げる。
泥にまみれ、酸に焼かれながら。
国家という虚構に縛られ続けた戌亥迅の狂乱の行進は、崩壊していくユートピアの片隅で、あまりにも惨めに、そして静かに、終わりを迎えようとしていた。




