第72話 崩壊の酸性雨(前編)
ゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
第三データセンターの深部でエイダ・クロムウェルが放ったウイルスは、新京の心臓たるメインフレームを物理的に焼き切った。
その影響は、単なる通信インフラのダウンにとどまらなかった。瀬戸内海を埋め立てて建造された階層型都市・新京において、市民の生活を完璧に管理していた「気候制御システム」が完全に暴走を開始したのだ。
新京の空を覆う巨大な天蓋と、各階層の排気ダクトから、凄まじい轟音と共に圧縮された冷却ガスと化学物質が吐き出され始めた。
それらは上空で分厚い暗雲を形成し、間を置かずに「雨」となって都市全域に降り注いだ。
だが、それは生命を潤す恵みの雨ではない。都市の排気と化学薬品が高濃度で混ざり合った、致死レベルの「人工酸性雨」だった。
ジュゥゥゥゥッ……!!
第一階層から最下層に至るまで、美しいガラス張りのビル群や、無菌状態を保っていたアスファルトが、酸性雨に打たれて白煙を上げながら溶け始める。
逃げ惑う市民の悲鳴が、雨音にかき消されていく。皮膚を焼かれ、呼吸器を犯された人々が次々と倒れ伏し、文字通りの地獄絵図が現出していた。
完璧だったユートピアの、物理的な崩壊。
その終末的な情景の中を、一台の漆黒の装甲バイクが白煙を引きながら疾走していた。
「……現在位置、第六階層・商業区画。天候状況、極めて劣悪」
暗部『鴉』の執行官・戌亥迅は、酸性雨によってチタン装甲の表面をジリジリと焼かれながらも、一切の表情を変えることなく『黒王』のアクセルを開け続けていた。
彼の左腕はすでに失われ、右足の駆動系からはオイルが漏れ続けている。動力炉の出力もレッドゾーンを振り切り、いつ機能停止してもおかしくない状態だ。
『Warning: External Armor Corrosive Damage 45%. System Overheating.』
網膜ディスプレイには、機体の深刻なダメージを告げる赤い警告が途切れることなく表示され続けている。
(……うるさい)
戌亥は、警告を意識の端へと追いやり、単眼レンズの赤外線モードで雨の向こうの光景を捉えた。
前方の交差点では、狂気とも言える「三つ巴」の激戦が繰り広げられていた。
一つは、小津家高のプロパガンダによって武装蜂起し、エイダから供給された重火器を手にした数十万規模の『反乱軍』。
一つは、加藤国防大臣の無差別殲滅命令を受け、権藤の指揮下で市民ごとテロリストを粉砕し続ける国防省直轄・特殊機甲連隊『金剛』を中心とした『正規軍』。
そしてもう一つは、メインフレームのダウンによって敵味方識別論理(IFF)が狂い、目に映る動くものすべてを排除しようと暴走する『治安維持局の無人兵器群』だ。
チュドォォォォンッ!!
反乱軍の放ったロケット弾が、無人多脚戦車の装甲を吹き飛ばす。
ズドドドドドッ!!
すぐさま正規軍の装甲車が、その反乱軍の部隊ごと重機関銃でハチの巣に変える。
酸性雨が降り注ぎ、すべてが平等に溶けていく世界で、彼らは血みどろの殺し合いを演じていた。
もはや、誰が正義で誰が悪か、何のために戦っているのかすら誰も分かっていない。ただ、目前の敵を殺すという狂乱だけが、この街を支配していた。
「……どけッ!!」
戌亥は、交差点のド真ん中へと『黒王』を突撃させた。
猛スピードで接近する黒い機体に気づいた反乱軍の兵士たちが、慌ててアサルトライフルを構える。
「『鴉』の猟犬だ! 撃ち殺せ!!」
バラバラと放たれる銃弾。
戌亥は黒王の車体を傾け、ドリフトしながらそれを躱すと、残された右腕のパイルバンカーを構えてバイクから跳躍した。
「零式・重圧粉砕腕……ッ!」
凄まじい火薬の炸裂音。
酸性雨を切り裂いて放たれた鋼鉄の杭が、反乱軍の兵士数人を一瞬にして肉塊へと変える。
「ひ、ひぃぃぃッ!」
「なんだこいつ! 片腕で……バケモノめ!」
パニックに陥る反乱軍。
だが、戌亥の殺戮は止まらない。彼は右足を引きずりながらも、泥と血に塗れた体を強引に前へ進め、奪い取ったコンバットナイフや、己の質量そのものを武器にして、次々と暴徒の喉を掻き切り、頭蓋を粉砕していく。
「……排除する。反逆者は、すべて排除する」
虚ろな声で呟きながら、殺戮を続ける戌亥。
その姿は、もはや「治安維持」という名の正義を実行する執行官ではない。ただ、プログラムされた『敵を殺す』という命令にすがりつき、壊れかけの歯車を無理やり回し続けるだけの、狂気の機械だった。
チュインッ!
戌亥の背後から、暴走した無人警備ドローンがレーザーを放つ。
戌亥はそれを背中の装甲で受け止め、ジリジリと肉が焼けるような悪臭を漂わせながら振り返り、パイルバンカーの推力でドローンを一撃のもとに粉砕した。
(俺は、犬だ。飼い主が狂っていようと、国家が虚構だろうと、俺には……これしかないんだ)
酸性雨が、彼の剥き出しになった人工筋肉を焼き、激痛のノイズを脳髄に叩き込む。
しかし、その痛みが大きければ大きいほど、戌亥は自らが「まだ犬として機能している」という倒錯した安心感を抱いていた。
『戌亥……! アンタ、まだそんな所で……!』
突然、ノイズだらけの近距離通信回線から、牡丹の焦燥した声が響いた。
彼女もまた、この酸性雨の中で孤立し、別の戦域で限界の戦闘を続けているはずだ。
「……牡丹か。俺はまだ、機能している」
戌亥は、敵の死体を盾にして雨を凌ぎながら、低く答えた。
『アホ! 今すぐ地下へ退避せぇ! その雨、ただの酸やない! 機体の関節部から浸食して、中枢神経まで焼き切る仕様になっとる! データセンターが落ちて、システムが全市民ごとこの街を「消毒」しようとしとるんや!』
牡丹の声には、普段の飄々とした響きは微塵もなかった。
「……関係ない」
戌亥は、死体の盾を捨て、再び雨の中へと歩き出した。
「反乱軍が、まだこれだけ蠢いている。暴走した兵器も、狂った軍隊もいる。……俺の管轄区に敵がいる限り、俺は止まれない」
『……アンタ、本気で狂ったんか? もう守るべき国なんて、どこにも——』
「国はない。神も死んだ。分かっている!」
戌亥は、咆哮した。
「だが、俺の中の『命令』は消えねえんだよ! ここで止まれば……俺が今まで殺してきた奴らに、俺の存在をどうやって証明すればいい!!」
通信の向こうで、牡丹が絶句する気配が伝わってきた。
存在意義を手放せない男の孤絶。
完璧だったユートピアは崩壊し、狂気のシステムだけが、死してなお一匹の猟犬を縛り付け続けていた。
「……次だ。まとめてスクラップにしてやる」
酸性雨に装甲を焼かれ、黒いオイルの涙を流しながら。
戌亥迅は、終わりの見えない三つ巴の戦場へと、再びその身を投じていった。




