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鋼の狂犬  作者: 八咫 日本


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第69話 亡き同志の影(後編)

 酸性雨が降りしきる第十二外周区の廃工場地帯。

そこは、最新鋭のコンバット・ボディを持つ亡命政府の刺客たちと、半壊した旧式のサイボーグである戌亥迅との、凄惨な削り合いの舞台と化していた。

「……ハァ、ハァ……ッ」

戌亥の呼吸ユニットが、不気味なノイズを混じらせながら激しく上下する。

彼の全身を覆っていた漆黒の装甲は無残に剥がれ落ち、内部の人工筋肉や駆動系が剥き出しになっている。左腕は失われ、右足は完全に機能不全。動力炉の出力はレッドゾーンを振り切り、全身から漏れ出す合成血液とオイルが、泥水に黒い染みを作っていた。

だが、彼の足元には、小津家高が送り込んだ十数名の特務サイボーグ部隊の残骸が、文字通りのスクラップとなって折り重なっていた。

弾薬をとうに撃ち尽くした戌亥は、奪い取ったプラズマ・カッターの刃すら折れ、最後は己の質量と右腕のパイルバンカーのみで、敵の頭蓋を叩き割り、胴体を粉砕してきたのだ。

「バケモノ……め……ッ」

瓦礫に背を預け、瀕死の状態で生き残っていた橘が、血反吐を吐きながら呻いた。

彼の腹部には、戌亥のヤタガラスによって穿たれた風穴が空いており、内蔵されたシステムはすでにカウントダウンを始めている。

戌亥は、引きずるような重い足取りで橘の前に歩み寄った。

ヤタガラスも、パイルバンカーのカートリッジも、すべて空だ。彼はただ、静かに橘を見下ろし、機械のように冷たい単眼レンズを向けた。

「なぜだ……」

橘は、折れた腕で戌亥の脚を掴み、怨嗟の声を絞り出した。

「なぜお前は、そこまでして……この狂った国を守ろうとする! お前だって、分かっているはずだ……! 木下の独裁が、犬養先生の理想をどれほど汚しているか……! なぜ、これだけの血を流してまで、豚の犬に成り下がる!!」

その言葉は、戌亥の胸の奥底にある傷口を容赦なく抉った。

(犬養先生の理想)

橘は最後まで、神(犬養)が権力に絶望し、自らの手でこの国を自壊させようとしている真実を知らない。彼ら亡命政府の兵士たちは、かつて関と共に夢見た「自由で平等な日本」という幻想を、純粋に信じ切ったまま死んでいくのだ。

『Error: Absolute Moral Contradiction』

戌亥の視界で、エラーコードが悲鳴のように明滅する。

真実を知っているのは、自分と牡丹だけ。この国は失敗作であり、守る価値など最初からない。

それでも、自分は彼らのような「純粋な理想」を持つ者たちを、冷酷に殺し続けている。

「……理想など、初めからない」

戌亥は、ノイズ混じりの極めて低い声で吐き捨てた。

「お前たちが信じた神も、俺たちを支配する豚も……全部、同じだ。この国は、権力という病に侵された、巨大な死体だ」

「な……に?」

橘が目を見張る。

「だがな……」

戌亥は、血に塗れた右腕をゆっくりと持ち上げた。

「俺は、その死体の血を吸って生きてきた『犬』だ。……お前たちの崇高な正義を否定する資格はねえ。だから、俺は俺のやり方で、最後までこの死体の番犬として戦い抜くしかねえんだよ」

それが、狂犬の導き出した、狂犬なりの「責任」の取り方だった。

無数の命を奪ってきた自分に、今さら自由を語る資格はない。彼らのような純粋な戦士たちの思いを、真っ向から暴力で叩き潰し、自らも泥に塗れて地獄の底まで落ちる。それ以外に、戌亥迅の存在意義はないのだ。

「……狂ってやがる」

橘は、自嘲するように口角を上げた。

「だが……関さんも、最後はそんな目をして……笑っていた……」

橘の瞳から、サイボーグの赤い光がフッと消え去った。

機能停止。

かつて犬養と共に夢を見た男の残滓は、冷たい酸性雨の中で完全に沈黙した。

「……」

戌亥は、橘の体を掴んでいた手を離し、ゆっくりと空を見上げた。

雨は強さを増し、新京の空を覆っていた分厚いコンクリートの階層を溶かし始めている。小津のプロパガンダジャック、軍の無差別虐殺、そしてデータセンターの破壊工作。

完璧だったユートピアは、文字通り物理的な崩壊の時を迎えようとしていた。

『……戌亥。応答しろ、戌亥』

通信回線に、東雲の声が入る。

先ほどの激昂した声とは違う。静かで、どこか諦観の混じった、冷徹なオペレーターの声だった。

「……こちら戌亥。対象部隊の完全排除を完了した。俺の管轄区に、敵はいない」

『了解した。……戌亥、よく聞け。メインフレームの損傷率が70パーセントを超えた。第三データセンターが完全に沈黙し、治安維持局のシステムはもうすぐ完全にダウンする。……局は、実質的に崩壊した』

東雲の言葉に、戌亥は微かに目を細めた。

『各部隊は完全に孤立し、生存している執行官たちも次々と戦線離脱を開始している。……もはや、お前に下す命令はない』

「……どういう意味だ、東雲」

『お前は自由だ、戌亥迅』

東雲の声が、わずかに震えた。

『お前は、十分に犬としての責任を果たした。これ以上、この狂った国に殉じる必要はない。本部の機能も、もうすぐ停止する。……逃げろ。どこか、誰も知らない場所へ』

それは、東雲からの事実上の「解雇通知」であり、最後にして最大の優しさだった。

「……断る」

戌亥は、一切の躊躇なく答えた。

「俺は犬だ。飼い主が死のうが、国が崩壊しようが、俺に与えられた『国家の敵を排除する』という初期命令(プログラム)は消えねえ。……牡丹はどこだ」

通信の向こうで、東雲が短く息を呑む音が聞こえた。

彼には分かっていたのだろう。戌亥迅という男が、決して首輪を自ら外すことができない悲しき化け物であることを。

『……御堂執行官は、現在第七階層の中間官庁街で、権藤の特殊機甲連隊と、反乱軍の主力部隊の激突に巻き込まれている。……だが、お前の今の機体状況で向かえば、確実に死ぬぞ』

「死ぬのは、俺じゃねえ」

戌亥は、泥水の中から立ち上がり、装甲バイク『黒王』の元へと足を引きずった。

「権藤のおもちゃ遊びを終わらせて、狂った神様の心中劇の最後まで付き合ってやる。……東雲。お前は人間だ。さっさと逃げろ」

『……馬鹿野郎が』

通信回線が、プツリと切断された。

それは、長年戌亥をサポートし続けてきた東雲との、永遠の別れを意味していた。

すべての支援を失い、文字通りの「完全な単独(ソロ)」となった戌亥。

機体は半壊し、弾薬もない。

それでも彼は、酸性雨の降り注ぐ狂気の都市を駆け抜けるため、黒王のエンジンに火を入れた。

「行くぞ……。死肉の宴は、これからだ」

V8エンジンの咆哮が、崩壊する新京の空に悲痛に響き渡った。

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