第68話 亡き同志の影(中編)
「ガハッ……!」
橘の強烈な回し蹴りを破損した右足に受け、戌亥迅は大きく体勢を崩して泥水の中へ倒れ込んだ。
瞬時に、周囲を取り囲んでいた十数名のミリタリー・サイボーグが、容赦のないアサルトライフルの十字砲火を浴びせかける。
ズドドドドドドッ!!
「……チッ!」
戌亥は倒れ込んだ勢いのままアスファルトを転がり、残骸となった装甲車両の陰へ滑り込んだ。
チタン合金の装甲が火花を散らし、幾発かの弾丸が駆動系に食い込む。痛覚センサーは遮断しているものの、システムからのダメージアラートが視界を赤く染め上げ、耳障りな警告音が脳髄を直接揺さぶる。
(出力低下、30パーセント……。左腕喪失、右足大破……)
状況は絶望的だ。相手は最新鋭の海外製第4世代コンバット・ボディ。対する戌亥は旧式の第3世代であり、なおかつ数週間に及ぶ大国葬での酷使と、先ほどの下層区での激戦で機体はすでに限界を超えている。
だが、それ以上に戌亥の動きを鈍らせているのは、胸の奥底で鳴り止まない「バグ」だった。
『貴様らが奪ってきた命の重さを、その機械の体で味わえ!!』
橘の悲痛な叫びが、酸性雨の音に混じって耳にこびりついて離れない。
彼らは正しい。かつて『東京ナイトオウル』が目指した、権力の腐敗のない自由な国家。その純粋な理想のために、彼らは祖国を追われ、体を機械に変え、亡命政府という過酷な環境で血の滲むような訓練に耐えてきたのだ。
一方の自分はどうだ。
この国が、創造主である犬養自身に見捨てられた「失敗作」だと知っていながら。木下のような豚の私欲のために数千人の市民を虐殺したという絶望的な事実を抱えながら。それでも、首輪を外せず、命令されるがままに「国家の犬」として歯向かう者を殺し続けている。
『Error: Empathy Level Maximum. Logic Overload.』
視界が真っ赤なエラーコードで埋め尽くされる。
(俺は、ただの壊れた殺戮機械だ。こいつらのような、崇高な理念など何一つ持っていない)
虚無と罪悪感が、極限まで摩耗した戌亥の精神を粉々に砕こうとしていた。
「隠れても無駄だ、木下の狂犬! 貴様が今まで殺してきた罪なき人々の無念、俺たちがここで晴らす!」
橘の声と共に、装甲車両の残骸がプラズマ・カッターの超高熱によってバターのように両断された。
崩れ落ちる鉄の塊の向こうから、橘が憎悪に満ちた目で飛び込んでくる。
「死ねッ!!」
プラズマ・カッターの青白い刃が、戌亥の首筋をめがけて振り下ろされる。
戌亥は咄嗟に右腕のパイルバンカーを盾にするが、超高熱の刃は分厚い装甲を溶かし、内部の油圧シリンダーを焼き切ろうとする。
「グッ……!」
至近距離での力比べ。だが、片腕を失い、脚部も大破している戌亥に勝ち目はない。ジリジリと刃が首元へと迫る。
「……戌亥。応答しろ、戌亥!」
通信回線から、再び東雲の怒鳴り声が響いた。
「バイタルが低下している! なぜ反撃しない! 機体性能では劣っても、お前の『鴉』としての戦闘経験なら、隙を突けるはずだ!」
「……無理だ、東雲」
戌亥は、食い縛った牙の間から血を吐き出すように答えた。
「こいつらは……間違っていない。狂っているのは、俺だ。俺たちの方だ」
戌亥の口から初めて漏れた、弱音にも似た言葉。
それは、長年彼を見守ってきた東雲にとって、彼の中の「バグ(人間性)」が完全にシステムの論理を凌駕し、彼を崩壊させようとしている決定的なサインだった。
『……ふざけるなッ!』
東雲の声が、これまで聞いたことがないほど激しく荒らげられた。
『お前がどれだけの血を吸ってきたか、今更になって恐れをなしたか! お前が狂犬だろうが、国家が虚構だろうが関係ない! お前は、今までお前の手で殺してきた者たちに対して、最後まで戦い抜く責任があるんだ! ここで綺麗事ほざいて死ぬ気なら、私が今すぐお前の自爆コードを起動してやる!』
それは、軍事オペレーターとしての冷徹な命令ではない。
彼を単なる兵器としてではなく、一人の不器用な「人間」として見守ってきた東雲なりの、不器用で残酷な叱咤だった。
「……責任、か」
戌亥の単眼レンズが、微かに収縮する。
そうだ。自分は、彼らのような崇高な理想を持った人間たちを、これまで「国家の敵」として無数に殺してきた。牡丹と共に、数千の無実の命を奪ってきた。
今さら、彼らの正義を前にして「自分は間違っていた」と膝を折ることなど、彼らに殺されて楽になることなど、許されるはずがないのだ。
犬は、最後まで犬として泥を啜り、血まみれのまま死肉を漁り続けるしかない。
それが、狂った国家に魂を売り渡したサイボーグの、唯一の存在証明なのだから。
「……ッォォオオオオオッ!!」
戌亥の人工動力炉(心臓)が、限界を超えた咆哮を上げる。
彼は、首元に迫っていたプラズマ・カッターの刃を、あえて「自身の右肩の装甲」に深く食い込ませた。
「なッ!?」
橘が驚愕に目を見開く。
装甲が溶け、戌亥の人工筋肉が焼け焦げる凄まじい悪臭が漂う。だが、刃が肉体に食い込んだことで、橘の動きがほんの一瞬だけ固定された。
戌亥はその隙を逃さなかった。
大破し、まともに動かないはずの右足を強引に振り上げ、橘の膝関節を粉砕する勢いで蹴り抜く。
「ガァッ!」
バランスを崩した橘の腹部に、戌亥は大口径対装甲拳銃『ヤタガラス』の銃口を深々と突き立てた。
「理想で……俺が殺せるかよ」
ズドンッ!!!
至近距離で放たれた20ミリ徹甲弾が、橘の最新鋭のコンバット・ボディを腹部から背中へと完全に貫通した。
「ゴハッ……!」
口から大量の合成血液を吐き出し、橘の巨体が崩れ落ちる。
「隊長ッ!!」
残りのサイボーグ部隊が、一斉にアサルトライフルを構える。
戌亥は、橘の体に刺さったままのプラズマ・カッターを強引に引き抜くと、全身からオイルと白煙を吹き出しながら、悪鬼のような形相で立ち上がった。
視界を覆っていたエラーコードは、極限の殺意によって完全に上書きされていた。
「……次だ。まとめてスクラップにしてやる」
酸性雨が降りしきる中、孤独な猟犬の絶望的な反撃が始まった。




