第63話 燃える下層区と孤絶の猟犬(後編)
「……東雲。西ブロックの封鎖線を突破された。増援部隊の到着座標を更新しろ」
焼け焦げた装甲車の残骸に背を預け、戌亥迅は通信回線に向かって低い声を張った。
だが、耳元のスピーカーから返ってくるのは、鼓膜を劈くような激しい電子ノイズだけだ。
『……ダメ、です……! 局のメインフレームがダウン……各部隊、指揮系統が完全に麻痺して……ッ! 戌亥さん、聞こえま——』
プツリ、という無機質な音と共に、東雲の悲痛な声が途絶えた。
新京の誇る完璧なネットワークは、小津のハッキングと暴徒による中継局の破壊により、物理的にも論理的にも完全に分断された。
絶対的な監視社会のインフラが崩壊した瞬間。それは同時に、戌亥という一個の猟犬が、数十万の暴徒が蠢く燃える下層区のド真ん中で、完全な「孤立無援」に陥ったことを意味していた。
「……ッ、死ねぇぇぇ!!」
残骸の向こう側から、防弾チョッキを着込んだ数名の暴徒がアサルトライフルを乱射しながら突込してくる。
戌亥は装甲車の陰から身を乗り出し、大口径対装甲拳銃『ヤタガラス』の銃口を向けた。
カチッ。
トリガーを引いた指に、虚しい金属音が響く。
残弾ゼロ。
予備の巨大なマガジンは、とうの昔に撃ち尽くしていた。押し寄せる暴徒の数は、一人のサイボーグが携行できる弾薬の限界をとうに超えていたのだ。
「弾切れだ! バケモノの弾が尽きたぞ!!」
「囲め! スクラップにして引きずり回せ!!」
狂喜の声を上げる暴徒たちが、一斉に距離を詰めてくる。
四方八方から降り注ぐ銃弾が戌亥の銀色の装甲を容赦なく削り取り、関節部から黒いオイルと合成血液が激しく噴き出した。
『Warning: Armor Level Critical.』
『Suggestion: Immediate Evacuation.』
網膜ディスプレイが、システムからの撤退勧告を真っ赤な文字で表示する。
冷静なAIの判断に従えば、とうに逃走を図るべき状況だ。彼にはまだ、装甲バイク『黒王』の推進力でこの包囲網を強行突破するだけのエネルギーが残されている。
それに、この国は「失敗作」であり、神自身が滅びを望んでいるのだ。ここで命を賭して暴徒を食い止める義理など、最初から存在しない。
だが、戌亥は逃げなかった。
「……舐めるな」
ヤタガラスをホルスターに乱暴に叩き込むと、戌亥は銃弾の雨の中を、剥き出しの殺意と共に前傾姿勢で突進した。
右腕の油圧シリンダーが、限界を超えた駆動音を上げる。
「零式・重圧粉砕腕……ッ!」
先頭にいた暴徒の胸ぐらを左手で掴み上げ、その胴体に右腕を直接叩き込む。
ズガァァァンッ!!
至近距離で炸裂した火薬の爆発力。極太の鋼鉄の杭が、防弾チョッキごと人間の肉体を粉砕し、背後にいた数人をも巻き込んで巨大な血の華を咲かせた。
それはもはや、洗練された治安維持の戦闘ではない。
血と泥とオイルに塗れ、ただ己の質量と暴力だけで敵をミンチにしていく、凄絶で泥臭い市街戦だった。
「ひ、ひぃッ……!」
仲間の肉片を浴びた暴徒が腰を抜かす。
戌亥はその顔面を鋼鉄のブーツで踏み砕き、奪い取ったライフルの銃身を別の敵の首に叩きつけてへし折った。打撃、粉砕、撲殺。弾丸を持たない猟犬は、自らの機械の肉体そのものを巨大な凶器として、重武装の群れの中を強引に蹂躙していく。
『Error: Mission Meaning Not Found.』
『Error: Absolute Logic Contradiction.』
敵の返り血を浴びるたび、戌亥の脳内でバグが狂ったように警鐘を鳴らす。
(なぜ戦う。なぜ殺す。お前の行動には、何の意味もない)
魂の奥底に残った人間性が、悲鳴を上げて戌亥の精神を内側から破壊しようとする。
痛覚は遮断しているはずなのに、全身の人工神経が焼き切れるように痛い。
意味などない。理由もない。
ただ、ここで首輪を外して逃げ出せば、戌亥迅という存在を構成するすべてが崩れ去ってしまう。
国家に魂を売り渡し、無数の命を奪ってきた自分には、今さら「自由」になどなれるはずがないのだ。犬は、最後まで犬として死肉を漁ることでしか、自らの存在を証明できない。
「ガァァァァァッ!!」
獣のような咆哮を上げ、戌亥は再びパイルバンカーの杭を射出する。
だが、その時だった。
チュドォォォォンッ!!
背後のビル群から放たれた対戦車ミサイルが、戌亥の至近距離で着弾した。
凄まじい爆風と炎が、漆黒のサイボーグを吹き飛ばす。
コンクリートの瓦礫に激突し、戌亥は血まみれの視界を揺らした。左腕は半ばから千切れかけ、火花を散らしている。右足の人工筋肉も断裂し、もはや立ち上がることすら不可能だった。
「……ハァ、ハァ……」
ノイズだらけの赤い視界の向こうで、数十人の暴徒が、ゆっくりと銃口を向けながら近づいてくるのが見えた。
後方には、装甲車の上に据え付けられた重機関銃が、容赦なく戌亥に狙いを定めている。
『System Failure Imminent.』
ついに、完全な終わりが来た。
虚構の国家のために手を汚し続けた狂犬の、あまりにも惨めで無意味な最期。
戌亥は薄れゆく意識の中で、それでも残った右腕のパイルバンカーを構えようと、泥だらけの指を動かした。
絶望が、燃える下層区を完全に覆い尽くそうとしていた。




