第61話 暴かれた大罪(プロパガンダジャック)
『大国葬』の狂気に満ちた夜から、数週間が経過していた。
表向き、新京は再び完璧な秩序を取り戻したかのように見えた。都市を覆っていた弔旗は撤去され、スピーカーからは鎮魂歌の代わりに、新総理・木下英雄の偉大さを讃えるプロパガンダと、明るい未来を約束する軽快なアナウンスが流れている。
「殉死大行進」によって数千人の市民が消えた事実など、最初から存在しなかったかのように、無菌のユートピアは平然と稼働を続けていた。
だが、その完璧な人工の空の下で、暗部『鴉』の執行官である戌亥迅は、自身の網膜ディスプレイに明滅し続ける微細なノイズを冷ややかに見つめていた。
「……通信トラフィック、異常値。第4階層から最下層に至るまで、全ネットワークに未確認のパケットが流入している」
漆黒の装甲バイク『黒王』に跨り、第3階層のハイウェイをパトロールしていた戌亥は、本部のオペレーターである東雲へ通信を入れた。
『こちら本部。……現在、原因を特定中だ。治安維持局のメインフレームに、外部から直接ハッキングが仕掛けられている。あり得ない……この街のファイアウォールは、物理的にも論理的にも完全に独立しているはずだぞ!?』
東雲の焦燥した声が、通信機から漏れ聞こえる。
戌亥は、何も答えない。
あり得ないことなど、何もない。この鉄壁の監視社会のシステムに裏門を開けることができる存在を、彼は知っている。
官邸地下の最下層、冷たい培養液の中で眠る、この国家の創造主……「機械じかけの神」である犬養旭弘の脳髄だ。
肥大化した権力に絶望した神は、自らが創り上げたこの「失敗作」の泥舟を沈めるために、ついに外部の勢力を完全に招き入れたのだ。
『Error: Absolute Control Override』
『System Hijack Confirmed』
戌亥の視界が、突如として赤く染まる。
彼自身の視覚だけではない。新京のあらゆる階層に設置された数百万の巨大ホログラム・モニター、市民の腕輪型端末、店舗のディスプレイ、果ては治安維持局の監視カメラの映像に至るまで、都市のすべての映像媒体が、一斉に「同じ映像」へと切り替わった。
『新京の市民諸君。私は、日本亡命政府代表、小津家高だ』
街中のスピーカーから、木下総理の陽気な演説を掻き消し、低く、威厳に満ちた男の声が響き渡る。
ホログラム・モニターには、星条旗を背景に立つ、白髪混じりの小津の姿が大写しになっていた。
『偉大なる犬養総理が病に倒れ、我々は深い悲しみに包まれた。……しかし、その悲しみの裏で、木下英雄という暴君がどのような大罪を犯したか。諸君は、その真実を知らねばならない』
次の瞬間、モニターの映像が切り替わった。
それは、数週間前の『大国葬』の夜。
暗闇の居住区で、無抵抗な老人や子供が、治安維持局の漆黒の猟犬たちによって次々と無慈悲に虐殺されていく、あの凄惨な「殉死大行進」の隠し撮り映像だった。
血飛沫。絶叫。破壊される家屋。
完璧な秩序を守るはずの国家の牙が、自らの国民の肉を貪り食う地獄の光景。
それが、数百万人という新京の全市民に向けて、一切の加工もなく、赤裸々に突きつけられた。
『見よ、これが現在の新京だ。木下英雄は、自らの権力を盤石にするためだけに、数千人の無実の市民を闇から闇へ葬り去った。この街はもはや、我々を守るユートピアなどではない。狂人によって支配された、巨大な屠殺場だ!』
街が、凍りついた。
タワーマンションから見下ろす富裕層も、工場で働く労働者たちも、あまりの衝撃に言葉を失い、モニターに釘付けになっている。
『我々は、かつて犬養先生と共に、真に自由で平等な国家を夢見た。だが、その理想は腐敗し、暴走した。……立ち上がれ、新京の市民よ! 狂った独裁者の首輪を噛み千切り、我々の手で、真の日本を取り戻すのだ!』
小津の扇動的な演説と共に、映像は再び切り替わり、「武装蜂起」を促す暗号コードと、亡命政府が秘密裏に隠匿していた武器庫の座標が、全ネットワークにばら撒かれた。
「……やりおったな。神様も、小津のオッサンも」
戌亥の通信回線に、御堂牡丹の乾いた声が割り込んできた。
彼女もまた、自身の管轄区でこのプロパガンダ放送を見上げているはずだ。
「完璧な管理システムが、あっという間に乗っ取られよった。うちの神様が自ら裏口の鍵を開けて、外部の連中にガソリンとマッチを配って歩いとるんや。ほんま、壮大な心中劇やで」
『……ああ』
戌亥は短く応え、『黒王』のアクセルを煽った。
巨大なエンジンが、咆哮を上げる。
『指令を受信した。第十一から第十五外周区の労働者が、暴徒化を開始。全執行官は直ちに鎮圧に向かえ』
システムから、無機質な出撃命令が下る。
戌亥と牡丹は、この暴動が自然発生したものではなく、犬養が意図的に仕組んだ「国家の自壊プログラム」であることを誰よりもよく知っている。
守るべき大義など、最初から存在しない。これは、神が描いた破滅のシナリオの、最終幕の始まりに過ぎないのだ。
「……行くぞ、牡丹」
「おおきに。ほな、泥舟の底が抜けるまで、精々踊ったろか」
絶望的な虚無感を抱えながら。
システムが完全に崩壊していく狂騒の街を、二匹の猟犬は主人の死を看取るかのように、赤く燃え上がり始めた下層区へと向かって走り出した。




