第60話 機械じかけの神
狂気と殺戮の祝祭、『大国葬』の夜が明けた。
新京の空を覆っていた純白の鎮魂レーザーは朝日に溶けて消え去り、地上には何事もなかったかのように、無菌状態のユートピアの日常が戻っていた。
しかし、その足元に広がる地下空間は、文字通り血の海と化していた。
数千人という単位の「不穏分子」を一夜にして処理した暗部『鴉』の執行官たちは、満身創痍のまま、事後処理と残党の掃討任務に追われていた。
戌亥迅の漆黒の装甲は、浴び続けた返り血とオイルが固まり、赤黒い斑模様を描いている。嗅覚センサーを限界まで絞り込んでも、網膜の奥にこびりついたような鉄の匂いと、死にゆく者たちの絶叫が、ノイズとなって彼の人工脳髄を苛み続けていた。
「……現在位置、官邸地下・最下層廃棄ブロック。生命反応、ゼロ」
戌亥は、重圧粉砕腕を引きずりながら、一切の光が届かない地下深くの回廊を歩いていた。
ここは、新京のメインフレームの冷却水や、都市機能の廃棄物を処理するための最下層だ。逃げ遅れた数名のターゲットを追い詰めてこの区画まで降りてきたが、彼らは戌亥のヤタガラスの銃弾を受けるまでもなく、有毒な廃棄ガスを吸い込んで自ら命を絶っていた。
任務は完了した。
あとは地上へ戻り、血に塗れた体を洗浄し、次の命令を待つだけの、ただの「機械」に戻るだけだ。
そう思い、戌亥が踵を返そうとしたその時だった。
『Error: Unregistered Signal Detected.』
網膜ディスプレイの隅に、微かなノイズが走った。
それは、治安維持局の最新鋭のネットワークから発せられたものではない。まるで数十年前の遺物のような、旧式の物理回線から漏れ出たアナログな信号だった。
戌亥は立ち止まり、単眼レンズの赤外線モードを起動する。
壁の一部、分厚いコンクリートの陰に、カモフラージュされた古いハッチが隠されていた。そこから、微弱な電気信号と、大量の冷却ガスが漏れ出している。
「……隠し通路か」
反乱軍のアジトか、あるいは亡命政府の工作員の遺した設備か。
戌亥は警戒を強め、ヤタガラスを構えたままハッチのロックを強引に破壊した。
重々しい音を立ててハッチが開く。その奥には、新京のどのデータベースにも存在しない、「深層」へと続く果てしなく長い螺旋階段が口を開けていた。
一歩足を踏み入れた瞬間、戌亥の感覚センサーが異常を感知した。
空気が違う。都市の排気ガスや下水の匂いではない。高濃度のオゾンと、無菌室特有の薬品の匂い、そして、巨大な演算装置が発する重低音が、這い上がるように響いてくる。
階段を下りきった戌亥の前に現れたのは、巨大な鋼鉄の扉だった。
電子ロックの規格すら存在しない、物理的なケーブルの束で強引にバイパスされた扉。戌亥は自身の首筋にあるアクセスポートから有線ケーブルを引き出し、扉の端末に直接プラグを突き刺した。
『Accessing... Deep Data Bank... Authorized.』
重厚な扉が、開かれる。
その隙間から溢れ出した青白い光に、戌亥は思わず目を細めた。
部屋の中に入った戌亥は、己の視界に映る光景を理解するまでに、数秒の時間を要した。
そこは、SFホラー映画のセットのような、狂気に満ちた空間だった。
ドーム状の巨大な部屋の壁面は、無数のスーパーコンピューターとサーバー群で埋め尽くされ、それらを繋ぐ極太のケーブルが、まるで脈打つ血管のように床や天井を這い回っている。
そして、その部屋の中央。
幾重ものレーザーバリアと、分厚い防弾ガラスに守られた巨大な円筒形の培養槽が鎮座していた。
緑色に濁った特殊な培養液の中を、無数の気泡が下から上へと立ち上っている。
その液体の中心に浮かんでいたのは、人間ではなかった。
いや、「かつて人間であったものの一部」であった。
巨大な脳髄。
大脳皮質から小脳、延髄に至るまで、生々しい灰白色のシワを刻んだ巨大な人間の脳みそが、培養液の中で静かに脈打っていた。
脳髄には、数え切れないほどの極細の電極とチタン製のデータケーブルが直接突き刺さっており、延髄の下からは、脊髄の代わりに太い光ファイバーの束が伸び、部屋全体のサーバー群と直結している。
「……なんだ、これは」
歴戦の執行官である戌亥でさえ、そのおぞましい光景に言葉を失った。
これほどの規模の生体演算装置など、新京の技術レベルを遥かに超越している。そもそも、誰の脳髄なのか。
戌亥がタンクに近づいたその時、彼の聴覚センサーを通さず、直接「脳内」の通信回路に、合成された無機質な、しかしどこか聞き覚えのある声が響いた。
『ようこそ。私の深淵へ、迷える猟犬よ』
戌亥は咄嗟にヤタガラスを抜き、周囲を警戒する。だが、部屋には誰もいない。声は、目の前の培養槽に浮かぶ脳髄から、直接データを介して戌亥の人工脳に語りかけてきているのだ。
「誰だ、お前は。……このシステムは、何だ」
戌亥が低く唸るように問う。
『私の声すら忘れたか。無理もない。今の私は、発声器官を持たぬただの演算処理装置に過ぎないのだから』
脳髄に刺さったケーブル群が一斉に青白い光を明滅させる。
『私は、国家自由主義国民党・初代党首。そして、この国を創り上げた者……犬養旭弘だ』
「……なッ」
戌亥の赤い単眼レンズが大きく見開かれた。
犬養旭弘。表向きには病に倒れ、つい昨日、あの狂気の『大国葬』によって天へと見送られたはずの、絶対的指導者。
その正体が、官邸地下の最下層で培養液に浮かぶ、ただの脳髄だったというのか。
「馬鹿な……。犬養総理は、病死したはずだ。それに……もし生きているのなら、なぜこんな姿で……! 木下たちが、あなたをこんなシステムに幽閉したのか!?」
『違う。木下をはじめ、政府の中枢にいる者たちは誰もこの真実を知らない。彼らは、私が本当に病に倒れ、死の淵を彷徨っていると信じ込んでいる』
合成音声には、感情の起伏が一切ない。しかし、その言葉の端々には、底知れぬ疲労感と、ある種の諦観が滲み出ていた。
『2035年初頭。この階層都市である新京が完成したまさにその時、私は自らの意志で肉体をパージし、この都市のメインフレームと完全に同化する道を選んだのだ。数年前から、私はすでに絶望し、この結末を望んでいた』
「絶望……? あなたが、人間を見限ったとでも言うのか。だから、システムとして我々を管理しようと……」
『人間ではない。私が絶望したのは……「肥大化する権力」そのものに対してだ』
培養槽の中の脳髄が、微かに明滅の速度を上げた。
戌亥の脳内に、言葉と共に、かつての日本の凄惨な記憶データが流れ込んでくる。
『戌亥迅。お前も知っているはずだ。我々がどのような地獄を潜り抜けてきたかを。2028年、中国軍閥の核ミサイルが東京に着弾し、かつての首都が炎と放射能の海に沈んだあの日のことを』
戌亥の視界に、キノコ雲と、灰に埋もれて炭化した無数の死体の映像がフラッシュバックする。
『私はあの時、多くの大切な同志を失った。私と共に政治を志し、派閥争いや泥沼の権力闘争で腐敗しきった日本を変えようと奔走してくれた、かけがえのない仲間たちだ。私は誓った。もう二度と、あのような悲劇は起こさせない。日本を一つにまとめ上げ、不毛な権力闘争を終わらせる絶対的な秩序を創り上げると』
『関もそうだ。彼は最後まで私の理解者であり、大切な友人だった。私が強権的な独裁体制を敷く過程で、彼は道を違え、党の親衛隊……今のお前たち『国家治安維持局』の前身となる部隊との激戦の末に死んだ。だが、彼もまた、私にとっては偉大な革命の同志だったのだ。……そして、それは今、私の名の下に新京を支配している者たちも同じだ』
犬養の言葉に、戌亥は耳を疑った。
『エリート層として軍をまとめ上げ、物理的防衛を盤石にしてくれた柴田。泥水を啜るような底辺から這い上がり、私の手が汚れるような裏仕事を一手に引き受けてくれた木下。そして、冷徹な計算でこの階層都市の法的・管理的基盤を完璧に構築してくれた明智。……彼らは皆、間違いなく私の大切な仲間であり、この国を創り上げた偉大な同志だ』
「……ならば、なぜだ!」
戌亥はたまらず叫んだ。
「彼らが大切な同志だと言うのなら、なぜ今、彼らは殺し合っている! 木下は明智に無実の罪を着せて粛清し、俺に柴田を暗殺させた! そして昨夜、数千人もの市民を『大国葬』の裏で虐殺した! あなたがシステムにいるのなら、なぜ木下の暴走を止めなかった!」
『止めなかったのではない。私が、彼にそうさせたのだ』
その瞬間、戌亥の人工心臓(動力炉)が、凍りついたように嫌な音を立てた。
『私は自らの意志で、木下にメインフレームの最高権限へのアクセスルートを残し、彼が権力闘争で圧倒的に有利になるよう情報を操作した。明智の失脚も、柴田の暗殺も、私が木下に与えた権力が引き起こした必然の結果だ』
「狂っている……。仲間だと言いながら、なぜ彼らを殺し合わせるような真似を……」
『この日本が……私が創り上げたこの国家が、「失敗作」だからだ』
脳髄からの通信が、かつてないほどの重圧を持って戌亥の意識を圧迫した。
『私は、権力闘争を無くすために絶対的な権力を手にした。だが、結果はどうだ。私が神として君臨し、完璧なシステムを構築しても、権力という魔物はただ形を変え、肥大化しただけだった。私の威光の下で、明智も柴田も木下も、結局は自らの正義と欲望のために派閥を作り、互いを牽制し合うようになった。私が変えようとしたかつての日本と、何一つ変わっていなかったのだ』
『私は悟った。人間が組織を作り、権力という構造が存在する限り、この悲劇の連鎖は永遠に終わらない。私がシステムとなって永遠の命を得たところで、この腐敗した巨大な檻を管理し続けるだけの、惨めな看守になるだけだ。……だから私は、この失敗作の国家を、根底から破壊することにした』
「破壊する……。自分の創った国を、自分で壊すために、木下に権力を渡したというのか」
『そうだ。この強固な国家を内側から崩壊させるには、論理的な明智や、誇り高い柴田では駄目だった。最も権力に飢え、手段を選ばず、自己の欲望のためだけに暴走できる男。……底辺から這い上がってきた木下こそが、この美しい虚構の国を最も醜く、最も完璧に壊してくれる適任者だったのだ』
戌亥は、ヤタガラスを持つ手が小刻みに震えるのを止められなかった。
すべては、この培養液に浮かぶ脳髄が描いた、巨大な自殺のシナリオだった。
権力に絶望した神は、最も愚かな狂犬にすべての鎖を外し、国家という名の泥舟に特大の穴を開けさせたのだ。
『小津が亡命政府を立ち上げ、正確なプロパガンダを放送できているのも。アメリカのCIAサイボーグ、エイダ・クロムウェルがこの鉄壁の新京に潜入し、テロリストに武器を供給できているのも。……すべて、私が彼らに情報をリンクし、システムの裏門を開けているからだ。外圧と、木下の暴走による内圧。この二つが交わるとき、日本は完全に終わる』
「……昨夜の、殉死大行進。あれも……」
『木下の権力欲が生み出した惨劇だ。私が彼に力を与えた結果、数千の無実の命が失われた。その罪は、私にある。国家を解体するための、血の代償だ』
「ふざけるな……ッ!」
戌亥はヤタガラスを振り上げ、分厚い防弾ガラスに銃口を押し当てた。
「俺たちが……俺と牡丹が、どんな思いで引き金を引いたか分かるか! 泣き叫ぶ子供を、武器も持たない老人を、俺たちは『秩序』を守るためだと自分を殺して撃ち殺した! そのすべてが、お前が仕組んだ『国を壊すための舞台装置』だったというのか! 俺たちの流した血も、バグの痛みも、全部お前の狂った絶望のせいだというのか!」
戌亥の咆哮が、広大な深層データバンクに虚しく響き渡る。
視界は真っ赤なエラーコードで埋め尽くされ、限界を超えた人工筋肉のあちこちから、火花と白煙が噴き出している。
今すぐトリガーを引けば、20ミリ徹甲弾はこのガラスを粉砕し、脳髄をただの肉片に変えることができる。
しかし、犬養の声は、ひどく穏やかで、慈愛に満ちていた。
『撃つがいい、戌亥迅。お前のその痛み、そのエラーこそが、人間としての正しい反応だ。私は権力という構造に絶望したが、人間そのものに絶望したわけではない。お前たちのような、痛みを抱えながらも戦い続ける魂がある限り、この国が更地になった後にも、新たな希望が芽吹くかもしれない』
『私を殺し、木下を殺し、自由に生きろ。お前はもう、誰の犬でもない。……私にはもう、この腐りきった泥舟が沈みゆくのを眺めていることしかできないのだから』
その言葉を最後に、脳髄からのデータリンクは静かに切断された。
部屋の照明が一段階落ち、巨大なサーバー群の駆動音が、遠くの波音のように静かに響き続ける。
戌亥は、ヤタガラスを構えたまま、まるで石像のように立ち尽くしていた。
撃てなかった。
ここでこの死に損ないの脳髄を破壊したところで、何が変わるというのか。木下はすでに権力を握り、革命軍の足音はそこまで迫っている。
彼らが信じてきた国家は、最初から「神の壮大な自殺装置」でしかなかったのだ。
これほどの虚無感が、存在するだろうか。
戌亥の中で、何かが決定的に音を立てて崩れ去っていくのを感じた。彼はゆっくりとヤタガラスを下ろし、血と泥に塗れた足を引きずって、果てしない螺旋階段を登り始めた。
***
数日後。
暗部『鴉』本部の、油と硝煙の匂いが染み付いた薄暗いメンテナンスルーム。
パイプ椅子に深く腰掛けた戌亥は、自身の右腕の人工筋肉の調整を行いながら、隣で二丁の『雷火』を磨いている御堂牡丹に、地下で見たすべてを密かに打ち明けた。
機械じかけの神の真実。
日本という国家が、権力に絶望した指導者自身によって設計された「失敗作」であり、今まさに計画通りに自壊しようとしていること。
木下の独裁も、アメリカや小津の介入も、そしてあの凄惨な殉死大行進も、すべては神が意図的に暴走させた権力の末路であったという事実を。
戌亥の話を最後まで黙って聞いていた牡丹は、手元のウエスをテーブルに投げ出し、大きく伸びをした。
そして、顔を覆うようにして、低く、乾いた笑い声を漏らした。
「ククク……アハハハハッ! なんやそれ、傑作やな!」
牡丹の笑い声は、メンテナンスルームの冷たい壁に虚しく反響した。
それは決して、可笑しくて笑っているのではない。極限の絶望と虚無を前にして、精神を崩壊させないための、彼女なりの自己防衛機構の表出だった。
「うちの神様は、とっくにイカれてたんやな。いや、権力に絶望して国ごと心中図るやなんて、スケールがデカすぎて笑うしかないわ。……ほんで? ウチらはその心中劇の脇役として、数千人のゴミ掃除させられとったんか。ほんま、笑えん冗談やわ」
牡丹は笑い涙を指で拭い、大きく息を吐き出した。
その瞳の奥には、いつもの飄々とした光はなく、底知れぬ暗闇が広がっている。
「……どうする、牡丹」
戌亥が、低い声で尋ねた。
「神は、俺たちに自由に生きろと言った。だが、俺たちはもう、自由になどなれない。これだけの血を吸いすぎた。俺たちはただの、壊れた殺戮機械だ。お前は……このまま、木下の犬として生きるか?」
戌亥の問いに、牡丹は少しだけ沈黙し、自身の脚部に内蔵されたアンクル・パイルバンカーの冷たい装甲を撫でた。
「……しゃあないやろ」
牡丹は、自嘲するように口角を上げた。
「ウチらは犬や。首輪の繋がれ先が、心中志願の脳みそやろうが、それに踊らされとる木下みたいな豚やろうが……犬は、噛み殺すことしか知らんのや。今さら首輪外して野良犬になったところで、ウチらのこの血まみれの手で、何を抱きしめられるっちゅうねん」
その言葉は、戌亥自身の心を残酷なまでに抉った。
そうだ。真実を知ったからといって、彼らが背負った罪が消えるわけではない。彼らはすでに、国家という狂ったシステムの一部として、あまりにも深く組み込まれすぎた。
「それにな……」
牡丹は立ち上がり、『雷火』をホルスターに収めた。
「犬養のオッサンが望んだ通り、どうせこの国は、もうすぐ終わる。小津のオッサンや、アメリカの化け物どもが、黙って見とるわけないやろ。……ウチらは、この泥舟が沈みきるまで、最後まで付き合うたるしか、道はないんや」
「……ああ。そうだな」
戌亥もまた、ゆっくりと立ち上がった。
右腕のパイルバンカーの油圧システムが、低く重い駆動音を鳴らす。
視界の隅では、相変わらず赤いエラーコードが明滅を続けているが、戌亥はもうそれを消そうとはしなかった。この痛みが、彼らに残された唯一の「人間」としての証明なのだ。
国家は虚構だった。神は死体だった。
それでも彼らは、狂った決意を胸に、血塗られた猟犬として、崩壊していく日本の最期を見届けるために歩き出す。
「行くぞ、牡丹。……次の命令だ」
「おおきに。ほな、地獄の底まで付き合うたるわ」
機械じかけの神が静かに自らの死を待つ都市で、二人のサイボーグは、決定的な絶望を抱えながら、最終章へと続く暗闇の回廊へと姿を消していった。革命の足音は、すでにすぐそこまで迫っていた。




