第59話 殉死の夜(後編)とノイズの共有
外周工業区、第三プラント跡地。
普段ならば巨大なタービンが低い駆動音を響かせているはずのその場所は、今はただ、重苦しい血と汚物の悪臭に支配されていた。
頭上の巨大スピーカーからは、第一階層と同じように、犬養旭弘の死を悼む荘厳なレクイエムが絶え間なく降り注いでいる。
「……次。第六ブロック、対象二十名」
暗部『鴉』の執行官、御堂牡丹は、血の海と化したコンクリートの床に立ち、二丁の『雷火』の弾倉を機械的な動作で交換した。
カチャリ、と冷たい金属音が響く。
だが、その音を鳴らした牡丹の手は、微かに、しかし確かに震えていた。
彼女の足元には、数分前まで生きていたはずの数十人の工員たちが、折り重なるように倒れている。彼らはただ、劣悪な労働環境の改善を求めて過去に一度ストライキを起こしただけだった。武器を持たない彼らを殺すのに、牡丹の代名詞である華麗なアクロバットやアンクル・パイルバンカーは全く必要なかった。
ただ歩み寄り、無機質に銃口を向け、トリガーを引く。それだけの作業。
「……あかん。手ぇが、震えて止まらへん」
牡丹は自身の金属の義手を見つめ、自嘲するように呟いた。
彼女はこれまで、自分が完璧に調整された「国家の猟犬」だと思っていた。重苦しい任務の中でも軽口を叩き、思考を放棄して引き金を引くことに慣れきっていた。
しかし、この『大国葬』の裏で行われている数千人規模の無差別な殺戮は、彼女の強靭な人工精神のキャパシティをとうの昔に限界突破させていた。
牡丹は、周囲の監視システムを一時的に欺瞞するハッキング・コードを展開すると、固く禁じられている暗部執行官同士の秘匿通信回線を開いた。
コール音は、二回鳴って繋がった。
『……どうした。牡丹』
通信の向こう側から聞こえてきたのは、ひどくノイズの混じった、軋むような低い声だった。
「……なぁ、戌亥。邪魔してすまんな。ちょっとだけ、声聞かせてえや」
『……構わない。俺も今、少し……止まっていたところだ』
遠く離れた下層区の暗闇の中。戌亥迅もまた、血塗られたヤタガラスを握りしめ、累々と積み重なった市民の死体の真ん中で立ち尽くしていた。
「……なぁ、戌亥。うちの弾、もう何人撃ったかわからんようになったわ」
牡丹の声は、いつもの飄々とした関西弁のトーンを取り繕おうとして、無惨に失敗していた。微かに震え、泣き出しそうな子供のように頼りなかった。
「システムはちゃんとカウントしてくれとるんやけどな、頭の中のカウンターが、とっくにぶっ壊れてしもうた。ただの老人撃って、怯える女の人撃って、子供撃って……。ウチは、何してんのやろな。国家の秩序守るんが、これなんか」
通信回線には、互いの周囲から聞こえてくるレクイエムの狂ったような旋律と、パチパチという電子的なノイズだけが響いていた。
『……俺の視界は、エラーで何も見えない』
戌亥が、血を吐くように重い声で応じた。
『ターゲットを視認するたびに、システムが脅威度ゼロだと警告してくる。論理矛盾のエラーコードが真っ赤に点滅して、もう、目の前の死体の顔すら見えないんだ。……痛覚は切っているはずなのに、息をするだけで、中身が焼け焦げるように痛い』
極限の罪悪感。
何百、何千という無実の命を刈り取っていく中で、二人のサイボーグの内側に芽生えていた微かな「バグ」は、もはや無視できないほどの激痛を伴う巨大な「良心の呵責」へと変貌していた。
完璧な兵器であろうとすればするほど、彼らの中に残された人間性が、血の涙を流して激しく反発する。
「……イカれとるな。ウチらも、この国も」
牡丹が、血だまりに映る自分の顔を見下ろして笑った。
「犬養先生っていう神様はとうに死んでて、木下みたいな下劣な豚が新しい神様ヅラして、ウチらみたいなバグだらけの壊れた機械に、ゴミ掃除させとる。全部、虚構やった。初めから、守るべき立派な国家なんて、どこにも無かったんや」
『ああ。俺たちは、存在しない幻のために、人間を殺している』
絶望的な事実の共有。
彼らは幼い頃から国家主義の洗脳を受け、身体を機械に変えてまで新京に尽くしてきた。しかし今、その絶対的な基盤は完全に崩壊し、後に残ったのは、ただ無意味に血をすする自分たちという醜い化け物の姿だけだった。
「……戌亥」
『なんだ』
「ウチ、このエラーコード、消したくないわ」
牡丹は、震える手で『雷火』のグリップを握り直した。
「痛くて、苦しくて、気狂いそうやけど……この胸の奥で鳴っとるノイズだけが、ウチらがまだ『人間』やったっていう、最後の証明のような気がするんや。これ消してもうたら、ウチらはほんまに、ただの鉄くずになってまう」
『……そうだな』
戌亥の声にも、微かな、しかし確かな感情の揺らぎがあった。
『俺も同じだ。この真っ赤なエラーがあるから……俺はまだ、自分が何者だったのかを辛うじて覚えていられる。お前と同じノイズが、俺の中にもある』
それは、恋愛感情などという甘いものではない。
血と泥と狂気の底で、決して洗うことのできない巨大な罪を背負った者同士だけが共有できる、極限の連帯感。「究極の戦友」としての、魂の結びつきだった。
通信越しに互いのノイズ(良心)の存在を確かめ合うことで、二人はようやく、完全に発狂して機能停止する寸前で、正気を繋ぎ止めることができた。
「おおきに、戌亥。ちょっとだけ、息ができるようになったわ」
『……死ぬなよ、牡丹。お前が壊れたら、俺も完全に壊れる』
「アホ。ウチがアンタより先に壊れるわけないやろ。そっちこそ、油断して背中撃たれるなや」
いつもの軽口が、ほんの少しだけ戻った。
だが、事態は何も解決していない。目の前には依然として、殺さねばならない数千人のリストが残っている。首輪を外すことはできない。犬は、主人の命令のままにこの夜を駆け抜けなければならないのだ。
「……ほな、また後で。地獄の底で会おうや」
『ああ。通信を切る』
プツリと、秘匿回線が切断された。
再び、圧倒的なレクイエムの音響と、機械的なシステムの稼働音だけが空間を支配する。
戌亥は、真っ赤な視界の向こうで震えている次のターゲットへと、ゆっくりと銃口を向けた。
牡丹もまた、暗闇の中で息を潜める工員たちの元へ、油まみれの重い足を踏み出した。
狂気に飲み込まれた無菌のユートピア。
その真の暗部で、二匹の猟犬は互いの魂の痛みを抱えながら、血塗られた「殉死大行進」の果てしない夜を、再び歩み始めた。




