第58話 殉死の夜(前編)
新京の夜空を、幾千もの純白のレーザー光が幾何学的な模様を描いて切り裂いていた。
天を衝くその光の柱は、表向きには偉大なる指導者・犬養旭弘の魂を天上へと導くための鎮魂の光である。都市の至る所に設置された巨大スピーカーからは、パイプオルガンと聖歌隊による荘厳な追悼曲が、耳を塞ぎたくなるほどの圧倒的な音量で鳴り響いていた。
第一階層の特権階級たちが安全なタワーマンションの窓辺からその美しい光のショーを見上げ、涙を流して哀悼の意を捧げているその頃。
陽の光すら届かない、最下層の居住区の泥濘の中で、漆黒の猟犬は血の海を這いずっていた。
「……次。区画D-4、第三アパート。対象、三名」
戌亥迅の声には、もはや一切の抑揚がなかった。
軋む人工筋肉を引きずり、錆びついた鉄扉を蹴り破る。そこにいたのは、反政府のテロリストでも、武装したゲリラでもない。ただ、粗末な食卓を囲んで身を寄せ合い、外から響く国葬のサイレンに震えているだけの、年老いた夫婦とその孫娘だった。
『Target Verified: Threat Level 0』
『Directive: Purge』
戌亥の網膜ディスプレイに、無機質な緑色の文字が浮かび上がる。
彼らには前科もない。ただ、数年前に一度だけ、配給の遅れに対して小規模な抗議集会に参加したという履歴があるだけだ。それだけの理由で、木下のシステムは彼らを「不穏分子」と断定し、この国葬の夜に処理すべきゴミとしてリストアップした。
「ひぃッ……! 治安維持局……!? なぜ、我々が何も……!」
老人が震える両手を前に出し、孫娘を庇うように立ち塞がる。孫娘は恐怖のあまり声も出せず、祖母の腕の中でひきつった顔をして泣いていた。
抵抗など、あるはずがない。
戌亥はただ、プログラムされた機械のように、大口径対装甲拳銃『ヤタガラス』を抜き放った。
装甲車すら貫通する20ミリ徹甲弾。それを、生身の、しかも栄養失調で痩せ細った老人に向けるという行為の異常さ。
『Error: Absolute Moral Contradiction』
『Warning: Logic Circuit Overload』
引き金に指をかけた瞬間、戌亥の視界を真っ赤なエラーコードが埋め尽くした。
脳髄の奥底に封じ込めたはずの人間性が、悲鳴を上げてシステムの論理回路を焼き切ろうとする。
(撃つな。こいつらは敵じゃない。何もしていない、ただの人間だ)
魂が叫ぶ。だが、首輪を嵌められた狂犬の肉体は、主人の命令を絶対に拒絶できない。
ダァンッ!!
ヤタガラスの咆哮が、狭いアパートの部屋を物理的に破壊した。
老人の上半身が、血と肉と骨の赤い霧となって爆散する。壁一面に、ドス黒い染みがべっとりと広がり、遅れて祖母と孫娘の鼓膜を破るような絶叫が響き渡った。
「あああああッ! おじいちゃん!!」
「いやだ、助けて、助けてください!!」
アクションの爽快感など、どこにもない。
あるのは、圧倒的な力を持った化け物が、無抵抗な弱者をただの肉塊に変えていくという、胸が潰れるような凄惨な虐殺の事実だけだ。
『Error! Error! Error!』
視界が真っ赤な血の色に染まる。エラーコードの警告音が、現実の悲鳴に重なって戌亥の脳を激しく揺さぶる。
痛い。撃たれているわけでもないのに、胸の奥の動力炉が焼け焦げるように痛い。左の単眼レンズからは、オイルと合成血液が混ざった血の涙がボロボロと溢れ落ちている。
「俺は、機械だ……。俺は、システムを維持するための、ただの部品だ……ッ!」
戌亥は自身の痛覚回路を強制的に焼き切り、バグの悲鳴を強引に封じ込める。
完璧な兵器であろうとすればするほど、内側の人間性が激しく反発し、肉体と精神の乖離が彼を狂気の淵へと追い詰めていく。
二発目。三発目。
轟音と共に、絶叫は完全に途絶えた。
ひしゃげた部屋の中には、原型を留めない三つの肉の塊だけが残された。
戌亥は血の海に膝をつき、激しく痙攣する右腕でヤタガラスを握りしめたまま、うめき声を上げた。
外からは、依然として美しい鎮魂歌が響いてくる。
空を覆う純白のレーザー光が、血と泥に塗れた戌亥の銀色の装甲を、冷酷なまでに鮮明に照らし出していた。
「……次。区画D-4、第五アパート。対象、四名……」
血を吐きながら、戌亥は立ち上がる。
狂った国家を浄化するという名目のもと、自らの魂をすり潰しながら、猟犬は次の生贄の待つ暗闇へと足を引きずっていく。この終わりの見えない虐殺の夜は、まだ始まったばかりだった。




