第6話 知識の代償
第十一外周区を焼き尽くした暴動の熱狂から数日後。
新京の中層区画、廃棄された旧地下鉄の駅構内は、カビと油、そして鼻を突くインクの匂いが充満していた。
治安維持局の監視網から外れたこの広大な地下空間は、小津亡命政府の思想書や反体制のプロパガンダビラを密造する非合法の印刷所として機能していた。
薄暗い蛍光灯の下、古びた輪転機が重々しい音を立てて稼働している。インクで手を汚した十数人の若者たちが、刷り上がったばかりのビラを急いで梱包していた。彼らは皆、かつて新京の大学で学んでいた学生たちだ。
「急げ。次の配給日までに、下層区の協力者にこれを届けなければならない」
若者たちを指揮しているのは、白髪交じりの初老の男だった。元大学教授であり、この地下印刷所の責任者でもある。彼らの瞳には、狂った国家を自分たちの手で啓蒙し、変えてみせるという熱を帯びた希望の光が宿っていた。
だが、その希望の光は、暗闇から現れた一人の死神によって、瞬く間に永遠の絶望へと塗り潰されることになる。
カツン、と。
硬質な足音が、地下空間に響いた。
若者たちの一人が音のした方へ振り向き、持っていたビラの束を床に取り落とした。
そこには、闇に溶け込むような黒いハーフコートを着た大柄な男が立っていた。戌亥迅。国家の猟犬が、単機で彼らの聖域へと侵入していたのだ。
「ち、治安維持局だ……! 鴉が来たぞ!」
若者の一人が絶叫し、腰に隠し持っていた旧式のオートマチック拳銃を引き抜いた。
彼らは知識人であり、兵士ではない。震える両手で構えられた銃口は定まらず、放たれた数発の弾丸は戌亥の足元のコンクリートを削るか、黒いコートを掠めるだけで終わった。
戌亥の端正な人工皮膚の顔には、一切の感情が浮かんでいない。
彼の網膜に映る若者たちは、人間ではなく、単なる『処理対象』の赤いシルエットとしてマーキングされていた。
戌亥は大口径対装甲拳銃『ヤタガラス』をホルスターから静かに抜き放つと、流れるような動作で銃口を向け、引き金を引いた。
轟音。
銃を構えていた若者の胸部が、爆発したかのように吹き飛んだ。血の霧が舞い、彼が立っていた後ろの壁にべっとりと赤い染みが広がる。
「ひぃっ……!」
「嘘だろ、助けて、嫌だあああっ!」
数日前の暴動のような、熱を帯びた戦場ではない。これは閉鎖空間で行われる、ただの一方的な害虫駆除作業だった。
パニックに陥り、出口へ向かって逃げ惑う若者たち。戌亥は歩みを止めることなく、機械的にヤタガラスの照準を合わせ、次々とトリガーを引いていく。
無駄な動きは一つもない。
正確な弾道計算に基づき、急所を的確に撃ち抜く。頭部、心臓、脊髄。
若者たちの命乞いも、泣き叫ぶ声も、恐怖に歪む顔も、戌亥の機械脳には何のノイズももたらさない。ただ、処理すべきタスクが一つずつ減っていくという事実だけが、電子信号として処理されていく。
数分のうちに、印刷所は凄惨な死体安置所へと変貌した。
血の海の中、最後に残ったのは、輪転機にすがりつくようにしてへたり込んでいる元大学教授だけだった。
戌亥はゆっくりと歩み寄り、血に染まった床を踏み締めながら、ヤタガラスの銃口を教授の顔へと向けた。
「待ってくれ……っ!」
教授は震える両手を前に突き出し、懇願した。その足元には、彼らが命を懸けて刷り上げた『自由と人間の尊厳』を説くビラが、教え子たちの血を吸って赤く染まっていた。
「私たちはただ、真実を伝えようとしただけだ! 人間が人間らしく生きられる世界を取り戻すために!」
戌亥は無言のまま、銃口を微動だにさせない。
「君も、元は人間だったのだろう!?」
教授は血走った目で戌亥を睨みつけ、必死に言葉を紡いだ。言葉でこの殺人機械の奥底にあるはずの良心に訴えかけようとしていた。
「お前のような機械に、人間の魂がわかるか。この国は間違っている」
地下空間に、教授の悲痛な叫びが反響する。
それは、体制に抗う知識人としての、最後の意地と誇りを懸けた説得だった。狂った国家のシステムではなく、彼個人の魂へと向けられた問いかけだった。
だが、戌亥の瞳は、ガラス玉のように冷たく濁ったままだった。
同情も、迷いも、葛藤も、彼の内面には一切存在しない。あるのは、国家から与えられた命令への絶対的な服従のみ。
「俺の魂は、国家のサーバーの中にある」
底冷えのする無機質な声でそれだけを返すと、戌亥は一切の躊躇なく、ヤタガラスの引き金を引いた。
乾いた銃声。
教授の眉間に黒い穴が開き、その身体は糸の切れた人形のように崩れ落ち、教え子たちの血だまりの中へと沈んだ。彼が最後まで握りしめていた思想書が、パラパラと床に散らばっていく。
静寂が戻った地下空間。
戌亥はヤタガラスをホルスターに収めると、コートの内ポケットから小型の焼夷手榴弾を取り出した。
輪転機と、山積みになった紙の束の中央にそれを放り投げる。
激しい閃光と共に、特殊な白リン弾が猛烈な炎を吹き上げた。
反逆の証拠も、若者たちの命を懸けた知識の結晶も、すべてが平等に灰へと変えられていく。
炎の熱を背に受けながら、戌亥は来た時と同じように、無表情のまま硬質な足音を響かせて暗闇の中へと消えていった。
国家の猟犬にとって、ここは単なる仕事場の一つに過ぎなかった。




