第56話 将軍の落日(柴田暗殺)
血とオイルの臭いに染まった鉄の回廊を抜け、戌亥迅はついに最深部の防空壕へと辿り着いた。
重厚な鋼鉄の扉をパイルバンカーでこじ開け、薄暗い室内へと足を踏み入れる。
そこには、逃げ惑うことも、武器を取ることもなく、静かに待ち構える一人の男の姿があった。
国防大臣、柴田勝馬。
彼は仕立ての良い軍服の埃を静かに手で払い、完璧に整えられた姿勢で、デスクの前に立っていた。その冷徹な瞳には、死への恐怖など微塵も存在しない。
「……随分と手こずったようだな、『鴉』の執行官」
柴田は、ボロボロに装甲を削られ、白煙を上げる戌亥の巨体を一瞥して言った。
「私の護衛部隊を単機で突破するとは。木下が貴様らを重用する理由も頷ける」
戌亥は何も答えない。
ただ無言のまま、巨大な対装甲拳銃『ヤタガラス』を引き抜き、その銃口をゆっくりと柴田へ向けた。
『Error: Target is State Minister. Maximum Penalty Applied.』
『Warning: Severe Logical Breakdown.』
戌亥の網膜ディスプレイを、視界を塞ぐほどの真っ赤なエラーコードが埋め尽くす。
システムが、そして戌亥自身の奥底に眠る人間性の残滓が、必死に警告を発していた。目の前の男は、国家の反逆者ではない。新京の防衛を担う絶対的な要だ。彼を殺せば、この国は木下という無能な狂犬に完全に食い潰される。
「なぜ撃たない。命令なのだろう?」
柴田は、ヤタガラスの銃口を向けられたまま、一歩も引かずに戌亥を見据えた。
その声には、怒りよりも深い、底知れぬ失望が込められていた。
「木下のような下劣な豚に国を売り渡し、自らの手を血で染める。それが、貴様ら『鴉』の正義か。貴様はそれでも、国家の犬と呼べるのか」
痛烈な問いかけが、戌亥のバグを激しく掻き立てる。
人工筋肉が軋み、痛覚センサーが狂ったようにアラートを鳴らす。だが、戌亥は感情を完全にシャットアウトし、虚無の底からかすれた声を絞り出した。
「……命令だ。俺は、ただの兵器だ」
「哀れなものだな」
柴田は静かに目を伏せた。
「犬養先生という絶対の羅針盤を失い、我々はこの国の行く末を見失った。だが、貴様のように思考を放棄し、狂人の首輪を甘んじて受け入れることなど、私には到底できん。……撃て。私が死ねば、この国は完全に終わる」
柴田は再び顔を上げ、戌亥の赤い単眼レンズを真っ直ぐに射抜いた。
その誇り高き軍人の瞳に、戌亥は自分自身の空っぽな魂を映し出されたような錯覚を覚えた。
(……ああ。これで、本当に終わりだ)
戌亥は痛覚を遮断し、エラーコードのノイズごと、ヤタガラスのトリガーを重く引いた。
ダァンッ!
閉鎖された防空壕に、鼓膜を破るような乾いた銃声が反響した。
20ミリ徹甲弾が、国家の防衛を担ってきたエリート軍人の額を正確に打ち抜く。
柴田勝馬の身体は、崩れ落ちる瞬間までその姿勢を崩すことなく、ゆっくりと床に倒れ伏した。
沈黙。
銃声の残響が消えると、防空壕には恐ろしいほどの静寂が訪れた。
「……対象の、完全沈黙を確認」
戌亥は、誰に向かって言うでもなく呟いた。
視界を埋め尽くしていた赤いエラーコードは、完全に消え去っていた。バグが解消されたのではない。この国が完全に狂ったことをシステムが受け入れ、もはや矛盾を指摘することすら放棄したのだ。
銃口から立ち上る一筋の紫煙。
戌亥は、血の海に倒れる柴田の亡骸を静かに見下ろした。
木下の完全独裁が成立し、新京という国家が後戻りのできない破滅への道を踏み出した瞬間。
猟犬の心には、勝利の達成感など微塵もない。ただ、果てしなく暗く、冷たい虚無感だけが、彼の残された人間性を完全に飲み込もうとしていた。




