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鋼の狂犬  作者: 八咫 日本


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54/101

第54話 狂犬への密命

 新京の全市民の網膜ディスプレイに、ひとつの「真実」が強制的に配信されていた。

『内務大臣・明智光矢。亡命政府との内通、ならびに指導者・犬養総理への暗殺未遂の首謀者として、国家反逆罪により極秘裏に処刑を完了』

そのニュースが街を震撼させている頃、国家治安維持局の中枢、特別局長室では、下品で狂気じみた高笑いが響き渡っていた。

「ククク……ハーッハッハッハ!! 見たか! これがシステムを握る者の力だわ!」

木下英雄は、最高級の葉巻をふかしながら、革張りの巨大な椅子に深く背中を沈めていた。

本来、この部屋にあるはずのない豪奢な椅子。それは、官邸の首相執務室からわざわざ運ばせた「内閣総理大臣の椅子」であった。明智の公開処刑というショック・ドクトリンに乗じ、木下は治安維持局の武力と情報統制を背景にして、非常事態下の特例措置として「国家自由主義国民党・第2代党首」および「内閣総理大臣」の座を強引に強奪したのだ。

「内務省は完全にわしの足元にひれ伏した。警察権力も情報インフラも、そして党の全権限も、すべてこの木下様のものだわ。犬養先生の遺志を継ぐ真の後継者は、エリート気取りの連中ではなく、このわしだったというわけだ!」

椅子の上でふんぞり返る木下の顔は、権力の美酒に完全に酔いしれ、脂ぎって醜悪に歪んでいた。

その狂気に満ちた新首相の前に、音もなく一人の巨漢が立っていた。

暗部『鴉』最高位執行官、戌亥迅。

数々の死線を潜り抜け、装甲のあちこちに微かな弾痕やオイルの染みを残した漆黒の猟犬は、主人の狂態を赤い単眼レンズで静かに見下ろしている。

「よく来てくれただわ、戌亥。お前たち『鴉』の働きには本当に感謝しとるよ。だがな、わしの……いや、この新京の真の平和を確固たるものにするには、まだ一匹だけ、巨大な害虫が残っとるんだわ」

木下は葉巻の煙を吐き出し、血走った目で戌亥を睨みつけた。

「国防大臣、柴田勝馬だ。あの野郎、わしが党首となり首相になったというのに、いまだに軍を動かして官庁街を制圧しようと画策しとる。犬養先生の定めた絶対の秩序を、武力で破壊しようとする真の反逆者だわ」

木下の言葉は、明らかな詭弁だった。

権力闘争において自分を脅かす最大の敵を、合法的に排除するための口実。戌亥の網膜ディスプレイには、木下の発言と同時に、システムの中枢から激しいエラーコードが明滅し始めていた。

『Error: Logical Contradiction.』

『Warning: Target "Shibata Katsuma" is a State Minister.』

柴田は反逆者などではない。ただ、木下にとって邪魔なだけだ。

罪のない市民を殺し、忠臣であったはずの明智を謀殺し、今度は国防の要である柴田までをも暗殺する。それが国家のためだというのか。戌亥の内側で、人間性の残滓である「バグ」が激痛となって人工筋肉を軋ませる。

(俺は……誰のために、何のために牙を剥いている?)

「柴田の野郎が、『金剛』の権藤を官庁街に本格配備する前に、先手を打たねばならん。戌亥、これは党首として、そして内閣総理大臣としての、最優先の絶対命令だわ」

木下は身を乗り出し、醜く口角を吊り上げた。

「国防省の地下要塞に潜入し、反逆者・柴田を極秘裏に処理しろ。お前ならやれるな?」

沈黙が降りた。

戌亥の視界を真っ赤なノイズが覆い尽くす。狂った主に仕える猟犬の悲哀。主人が狂い、命令が狂っていても、犬に首輪を外す自由は与えられていない。思考すれば狂ってしまう。ならば、自らを純粋な「機械」へと貶めるしかない。

戌亥は痛覚回路を強制的に遮断し、バグのノイズをシステムの奥底へ押し込んだ。

「……了解した(タスク、アクセプト)」

無機質に、ただ一言だけ答える。

「ククク……頼んだぞ、わしの可愛い猟犬」

背後で響く木下の醜悪な笑い声を背に、戌亥は特別局長室を後にした。

出撃の三十分前。

薄暗い『鴉』本部の専用メンテナンスルームには、冷たい金属の匂いと、ガンオイルの饐えた香りが充満していた。

戌亥は一人、作業台の前に座り、自身の兵装の最終調整を行っていた。バグによる内面の激痛を誤魔化すように、彼はただひたすらに機械的な作業に没頭する。

カチャリ……チャキッ。

大口径対装甲拳銃『ヤタガラス』。戌亥は銃身を分解し、チタン合金の内部機構にこびりついた硝煙の煤を丁寧に拭き取っていく。

スライドの動きを確認し、重厚なマガジンに20ミリ徹甲弾を滑り込ませる。一発、また一発。真鍮の鈍い輝きを放つ銃弾を押し込むたびに、指先に伝わる冷たい金属の感触だけが、彼が今ここに存在しているという確かな事実だった。

ガシャン、とマガジンを装填し、スライドを引いて初弾を薬室に送り込む。ヤタガラスの重みは、彼がこれまで奪ってきた命の重さそのもののように、義手にのしかかっていた。

続いて、右腕の『零式・重圧粉砕腕(パイルバンカー)』。

戌亥は装甲のラッチを解除し、肘から先を物理的に展開させた。中から姿を現したのは、鈍く光る極太の鋼鉄の杭(パイル)と、それを射出するための巨大な火薬シリンダーだ。

彼は、前回の戦闘で消費した空の火薬カートリッジを排莢し、新品の超高圧カートリッジをシリンダーに装填する。

カコン、カコン、と重々しい音が室内に響く。

「……人工筋肉、圧縮率確認。油圧バルブ、異常なし」

自身に言い聞かせるように呟きながら、油圧チューブの接続を確認し、チタン装甲の歪みを専用のレンチで力任せに補正していく。

シューッ、と排気音が鳴り、パイルバンカーの射出機構が完璧なロック状態へと移行した。出力は100パーセント。いかなる分厚い装甲をも一撃で粉砕する、悪魔の腕の準備が整った。

軍のトップである柴田の首を獲るということは、軍用サイボーグの精鋭たちが待ち受ける死地へ単騎で突入するということだ。生きて帰れる保証はどこにもない。

だが、今の戌亥にとって、死の恐怖など存在しなかった。

あるのは、思考を停止し、命令のままに標的を破壊する「兵器」としての絶望的なプロ意識のみ。

戌亥はヤタガラスをホルスターに収め、白煙を上げる右腕の装甲を閉じた。

赤い単眼レンズが、暗いメンテナンスルームの中で爛々と発光する。

彼は重い足取りで立ち上がり、静かに扉を開けた。血塗られた鉄の回廊へと至る、孤独な出撃の時だった。

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