第52話 策謀の生贄
新京という都市は、無菌状態のユートピアであると同時に、史上最も完璧な「情報的牢獄」である。
全市民の首の後ろに埋め込まれた『国民管理ICチップ』。監視カメラの映像。電子通貨の決済履歴。通信ログ。そのすべてを統括する国家治安維持局のメインフレームは、文字通り新京における「神の目」であった。
そして今、その神の目をジャックし、自らの手足として振るう男がいた。
特別局長室の巨大なモニター群の前に立つ、木下英雄である。
「遅いだわ! もっとピッチを上げろ! 夜明けまでにすべての『真実』を書き換えるんだわ!」
木下のヒステリックな怒号が、暗闇に包まれたサイバー犯罪対策室のフロアに響き渡る。数十人のトップレベルのハッカーとデータ改竄専門の局員たちが、血走った目でキーボードを叩き続けていた。
「明智の内務省サーバーへのバックドア、構築完了しました! 通信ログを上書きします」
「日本亡命政府の小津家高との暗号化パケット通信履歴、捏造完了。過去半年にわたり、定期的な情報漏洩があったものとしてデータベースに定着させました」
局員たちの報告を聞きながら、木下は醜悪な笑みを浮かべ、親指の爪を噛んだ。
「いいぞ。次は犬養先生の医療記録だ。倒れる直前の午後二時、明智が官邸を訪れた際の監視カメラ映像をディープフェイクで差し替えろ。明智の持ち物から、遅効性の合成神経毒の成分反応が検出されたようにセンサーログを改竄するんだわ」
「了解。バイオセンサーの履歴に虚偽の毒物反応をインサート……完了。同時に、明智の隠し口座に海外からの多額の電子マネーの送金履歴を作成します」
恐るべき手際だった。
新京において「真実」とは、事実そのものではない。システムに記録されたデータこそが「真実」なのだ。
木下が持つ国家治安維持局の絶対的なアクセス権限(ルート権限)の前では、昨日までの確かな事実など、まるで砂上の楼閣のように容易く崩れ去る。
明智光矢は、国家の安定を願う極めて論理的で優秀な官僚だった。しかし、彼の論理はシステムの上でしか成り立たない。木下はそのシステムそのものを、根底から書き換えてしまったのだ。
「ククク……ハーッハッハッハ!」
改竄されていくデータストリームを見つめながら、木下は狂気じみた笑い声を上げた。
「見たか、柴田! 明智! これが新京の真の力だわ! 軍の戦車が何百両あろうが、正論を並べ立てようが関係ない! この街の『現実』は、このわしがキーボード一つで自由に創り出せるんだわ!」
夜明け前。
内務省の長官室で、明智光矢はブラックコーヒーを啜りながら、朝の会議に向けた暫定政権の閣僚リストと、軍の介入を法的に阻止するための防衛策を練っていた。
彼の頭脳は常に冷徹で、感情に流されることはない。犬養という絶対的支柱を失った今、この国を軟着陸させられるのは自分しかいないという、強烈な自負と責任感があった。
しかし、その時である。
明智の視界を覆っていたARディスプレイの映像が、突如として激しいノイズと共にフリーズした。
「……? 回線の不具合か?」
彼が内務省のシステム管理部へ連絡を取ろうと、インターコムのスイッチを押した瞬間。
『Error: Access Denied.』
『Warning: Citizen ID Revoked.』
無機質なシステム音声と共に、部屋の照明が血のような赤色に切り替わった。
同時に、長官室の窓という窓に、分厚い鋼鉄の防爆シャッターが重々しい音を立てて降りていく。
「何事だ!? 誰か、応答しろ!」
明智は自身のタブレット端末を叩くが、すべてのネットワークへのアクセスが弾かれていた。新京のシステムが、彼のアカウントを「存在しないもの」あるいは「極度の危険分子」として認識し始めているのだ。
ガチャン! と、部屋のホログラム・モニターが強制的に起動し、そこに木下英雄の顔が映し出された。
『おはようだわ、明智長官。いや……国家反逆罪および、犬養総理暗殺未遂の主犯格、明智光矢容疑者』
「……木下。何の真似だ、これは。軍を動かしてクーデターでも起こす気か」
明智は眼鏡を押し上げ、冷静さを保って問いかけたが、木下の口から出た言葉は、彼の論理的思考を完全に破壊するものだった。
『とぼけるなだわ! 貴様が亡命政府の小津と結託し、新京の防衛情報を売り渡していた決定的な証拠が、今、全市民の端末に公開されたところだ! しかも、犬養先生に毒を盛りやがって……!』
「何を馬鹿な……! そんな事実は存在しない! 私の通信記録と医療ログを調べれば、すぐに捏造だと分かるはずだ!」
『ククク……そのログが、お前が毒を盛ったと証明しているんだわ』
木下の嘲笑に、明智の背筋に氷のような悪寒が走った。
彼は理解した。木下がただ力で内務省を封鎖したのではないということを。
治安維持局の持つ圧倒的なシステム権限を利用し、自分の存在そのものを「国家の敵」へと書き換えたのだ。ICチップの記録、監視カメラの映像、金融データ。新京において絶対とされるすべてのデジタル的証拠が、自分を犯人だと指差している。
正しい志も、完璧な論理も、システムを握る者の狂気の前には全くの無力だった。
彼はすでに、デジタル上で暗殺されていたのだ。
『内務省はすでにわしの特殊部隊が完全に封鎖した。お前はもう逃げられないだわ』
「木下……ッ! 貴様、自分が何をしているか分かっているのか! このような暴挙、柴田が、いや、市民が許すはずがない!」
『市民はシステムの言うことしか信じないだわ。お前はただの反逆者として、このまま誰にも真実を知られずに死ぬんだ』
モニターがプツリと切れ、長官室は再び赤い警報の光に包まれた。
明智は膝から崩れ落ち、震える手でデスクを叩いた。
「これが……これが私の愛した国家の正体か……ッ!」
完璧な秩序を誇った新京。そのシステム自体が悪意を持って牙を剥いた時、人間はこれほどまでに無力になるのか。明智の悲痛な叫びは、分厚い防爆扉に阻まれ、誰の耳にも届くことはなかった。
同刻。治安維持局本部の地下メンテナンスルーム。
暗部『鴉』の最高位執行官である御堂牡丹の通信回路に、木下局長からの最優先指令が直接ダウンロードされた。
『対象:内務大臣・明智光矢。罪状:国家反逆罪および指導者暗殺未遂。』
『命令:対象を即時、処刑せよ。』
牡丹はパイプ椅子から立ち上がり、手首の関節をコキコキと鳴らした。
彼女の視界には、明智が反逆者であるという大量の「証拠データ」が送られてきている。だが、彼女の鋭い勘は、それが木下の捏造であることに薄々気づいていた。
昨日まで国家のために働いていたトップ官僚が、一晩で反逆者になる。この街では、よくあることだ。
「……内務大臣の首獲りか。朝からとんでもない大仕事やな」
牡丹は二丁のカスタム・マシンピストル『雷火』をホルスターに収め、軽くストレッチをしながら乾いた声で呟いた。
「ま、ウチらは犬や。主人の言う通りに噛み付くだけやで」
一切の迷いはない。
国家の嘘も、権力闘争の醜さも、すべてを飲み込んで彼女は笑う。
圧倒的なスピードと脚力を誇る処刑人が、封鎖された内務省へと向けて、漆黒の闇の中を跳躍した。




