第50話 神の沈黙と蠢く野心
新京大橋は、文字通り血の海と化していた。
亡命政府の放送に扇動され、中枢の官庁街を目指して突入してきた数万の暴徒たち。しかし、彼らの歩みは橋の中央で完全に停止していた。放棄された装甲車と、積み上げられた無数の死体が巨大なバリケードを形成し、その頂点には、全身を赤黒い返り血と泥で染め上げた巨漢が立ち尽くしている。
暗部『鴉』最高位執行官、戌亥迅。
彼の右腕からは、オーバーヒートによる濃密な白煙が絶え間なく上がり、限界を超えた人工筋肉の駆動音が悲鳴のように鳴り響いていた。周囲には、もはや向かってくる者はいない。生き残った暴徒たちは、ただ一人で数千の命を蹂躙したこの化け物の姿に完全に戦意を喪失し、武器を捨てて中層区へと逃げ去った後だった。
「……対象の、完全排除を確認」
戌亥はかすれた無機質な声でシステムに報告する。網膜ディスプレイを埋め尽くしていた赤いエラーコードは、戦闘の終結と共に嘘のように消え去っていた。それは、バグが消滅したからではない。自らの内面を苛む人間性のノイズすらも、この凄惨な殺戮のエネルギーとして完全に焼き尽くしてしまったからだ。
彼には、もはや何も残っていなかった。狂った国家の欺瞞を知りながら、無実の市民を無音で暗殺し、怒れる群衆をただの肉塊へと変える。自分が何を守るために、なぜここまで己を貶めて戦っているのか。その理由すら、今の戌亥には靄がかかったように認識できなかった。ただ、国家の犬であるというプログラムされた執念だけが、辛うじて彼の存在をこの世界に繋ぎ止めている。
戌亥が血に塗れたヤタガラスをホルスターに収め、空虚な単眼レンズで夜明けの空を見上げた、その時だった。
――ウゥゥゥゥゥゥゥゥッ!!
新京全土を揺るがす、極大のサイレン音が鳴り響いた。それは、空襲警報でもテロ発生のアラートでもない。国家の中枢そのものに危機が迫った時にのみ鳴る、絶対的な非常事態宣言のサイレン。
そして、街中の巨大モニターと、すべての市民、そして戌亥のAR視界に、内務大臣・明智光矢の顔が強制的に割り込んだ。
『新京の市民よ、ならびに全ての国家構成員に告ぐ』
明智の顔には、悲痛な表情が完璧に貼り付けられていた。だが、その瞳の奥には、冷酷な計算と野心の炎が静かに揺らめいている。
『極めて遺憾ながら、我らが絶対指導者、犬養旭弘総理が、先刻、急病により倒れられた。現在、官邸地下の特殊施設にて意識不明の状態となっている。事態は極めて深刻である』
その言葉が響き渡った瞬間、新京の空気が凍りついた。
「神」の存在が、揺らいだ。
完全無欠のシステムであり、この絶対管理社会の支柱である犬養という存在。それが機能不全に陥ったということは、新京という虚構のユートピアが根本から崩壊することを意味していた。
『しかし、市民よ、恐れることはない。我々内務省は、国家の安定と秩序を維持するため、すでに全力を尽くしている。指導者の回復を祈りつつ、各自は持ち場を離れず、冷静に行動せよ。繰り返す――』
明智の放送がリフレインする中、戌亥は血の海に立ち尽くしたまま、ピクリとも動かなかった。自らの人間性を押し殺し、血を吐きながら守り抜こうとした絶対的な「存在」。それが、こんなにも呆気なく沈黙した。彼が夜を徹して行ってきた凄惨な任務は、すべて無意味だったというのか。戌亥の視界は、エラーコード一つ出ない。ただ、果てしなく静かで、恐ろしいほどの虚無だけがそこにあった。
同じ頃、新京中枢・国家治安維持局の特別局長室。
「な、なんっだコレはァァァッ!!!」
木下英雄局長は、ARディスプレイに映る明智の顔に向かって、テーブルの上の灰皿を狂ったように投げつけた。ガシャン、と高価なガラスが粉々に砕け散る。
「明智の野郎……ッ! 治安維持局たるこのわしを差し置いて、勝手な真似を! なぜ内務省が一番に非常事態宣言を出すんだわ!」
木下は自身の親指の爪を、血が滲むほど激しく噛みながら部屋の中をウロウロと歩き回った。彼が恐れているのは、犬養の安否ではない。絶対的な存在が揺らいだことで生じる「権力の空白」を、誰がいち早く奪い取るかという、その一点のみだった。
政権発足時から水面下で根回しを続けていた明智が、このタイミングで独断の緊急放送を打った意味。それは、事態を掌握しているのは内務省であると、全市民と全官僚に強烈にアピールする先手必勝の政治的策略に他ならない。
「舐め腐りやがって……! 警察権力を持っとるのはわしだぞ! わしが犬養先生の真の後継者だ!」
木下は充血した目で通信コンソールを叩き、配下の幹部たちへ怒鳴り散らした。
「『鴉』を総動員しろ! 官庁街の警備を内務省からすべて引き剥がせ! 逆らう奴はテロリストの共犯としてぶち殺せ!」
一方、国防省の地下深く、重厚な作戦会議室。
国防大臣・柴田勝馬は、巨大なメインモニターに映る明智の緊急放送を、冷徹な目で睨みつけていた。彼の背後には、圧倒的な巨躯を誇る『金剛』連隊長、権藤鉄幹が彫像のように直立している。
「内務省ふぜいが、軍より先に国家の非常事態を宣言するなど……明らかな越権行為だ」
柴田は革張りの手袋をゆっくりとはめ直しながら、静かな、しかし確かな怒りを込めて吐き捨てた。
「犬養先生という絶対的な存在が揺らいだ今、国家を防衛できるのは我々『軍』のみ。警察ごっこをしている木下も、おしゃべりしかできない明智も、所詮はあの威光にぶら下がっていただけの寄生虫に過ぎん」
柴田は権藤の方へ振り返ることもなく、冷酷な命令を下した。
「権藤。第1から第5連隊までを官庁街へ進駐させろ。暴徒の鎮圧を名目に、主要な政府機関をすべて『保護』する。木下の治安維持局が抵抗するなら、武力による排除も辞さん」
「……了解しました」
権藤の機械的な返答。柴田は再びモニターに目を戻した。犬養というシステムの根幹が揺らぐという国家の最大の危機を前にして、この国のトップたちは誰一人として「神」の身を案じてはいない。彼らの頭の中にあるのは、如何にして他のハイエナどもを蹴落とし、自分が新京の王座に座るかという、醜悪な権力闘争の算段のみであった。
夜明け。
血塗られた新京大橋の上に立つ戌亥を、冷たい朝の光が照らし出していた。遠く官庁街の方角からは、治安維持局の黒い装甲車と、国防省のオリーブドラブの戦車群が、互いに牽制し合うように不気味な移動を始めているのが見える。
戌亥は、静かすぎる視界でその光景を見下ろしていた。自分は、誰のために、何を守るために、あの暴徒たちを殺したのか。エラーコードすら出ない、完全な虚無。
血に染まった猟犬は、ゆっくりと歩みを進める。崩壊の足音は、もう後戻りできないところまで来ている。彼が向かう先には、血みどろの権力闘争と、狂気の『大国葬』という、さらなる地獄が待ち受けていた。




