第39話 鋼と流体
工業区画の巨大なパイプライン群が、明滅する紫色のネオンに照らされていた。
レジスタンスの残党を追っていた戌亥迅の網膜ディスプレイが、強烈な熱源反応を捉えた直後。虚空が陽炎のように歪み、音もなく銀色の刃が戌亥の首筋へと滑り込んできた。
戌亥は即座に上体を反らし、ミリ単位で致命傷を回避する。
空を斬った刃は瞬時に流体金属として液状化し、光学迷彩を解いた持ち主の両腕へと吸収された。CIA特務サイボーグ、エイダ・クロムウェル。
「相変わらず、可愛くない番犬ね」
エイダが冷たい微笑を浮かべるのと、戌亥がヤタガラスを抜き放つのは同時だった。
轟音。放たれた20ミリ徹甲弾を、エイダは右腕を瞬時に巨大なシールドへと変形させて弾き返す。火花が散る中、彼女はシールドを解除する反動を利用して前傾姿勢をとり、弾丸のような速度で戌亥の懐へ飛び込んだ。
両者の間に言葉はない。純粋な殺意と、極限まで研ぎ澄まされた金属音だけが工業区画に反響する。
エイダの両腕が極細のブレードに変形し、ムチのようにしなって戌亥の装甲を連続で切り刻む。
しかし、戌亥の動きに以前のような「フリーズ(バグによる停滞)」は一切なかった。彼は自らの内に渦巻くノイズと自己矛盾の痛みを、すべて圧倒的な攻撃エネルギーへと変換していたのだ。
チタン合金の装甲が削られ、火花が散っても、戌亥は防御すらしない。
エイダのブレードが左肩の装甲を深く抉った瞬間、戌亥は自らその刃を筋肉の繊維でロックするように踏み込み、右腕の零式・重圧粉砕腕を起動した。
「……ッ!」
エイダの瞳が見開かれる。
戌亥は自身の左腕を犠牲にしてでも、エイダを至近距離で完全に粉砕する気だ。
炸裂音が轟き、鋼鉄の杭が射出される。エイダはギリギリで流体金属を液状化させて拘束を解き、バックステップでパイルバンカーの一撃を回避したが、凄まじい衝撃波が彼女の身体を数メートル後方へと吹き飛ばした。
パイプラインに着地したエイダは、体勢を立て直しながら、眼下で白煙を上げる巨漢を見下ろした。
(以前とは違う。迷いで動けなくなるどころか、自分の内側のエラーを燃料にして、無理やり稼働出力を上げている……)
エイダのAIは、戌亥の駆動パターンが論理的な戦闘マニュアルから完全に逸脱し、ただの「怒り狂った獣」へと変貌していることを分析していた。それは、機械としては不完全な証拠でありながら、同時に、人間としては恐ろしいほどの執念の現れだった。
「狂犬が、本当の野良犬になりかけているのね」
エイダは自身の流体金属を波立たせながら、口元に微かな笑みを浮かべた。
絶対的な国家の奴隷だった男が、自らのバグに苦しみながらも、未知の領域へと足を踏み入れようとしている。単なる排除対象として見ていたこの男に対し、エイダの中で初めて、単なる敵以上の明確な「興味」が芽生えた瞬間だった。
「いいわ。どこまでその鎖に耐えられるか、見せてもらうわよ」
エイダが両腕のブレードを再び展開し、戌亥のヤタガラスが銃口を跳ね上げる。
紫色のネオンの下、二つの頂点兵器は再び、互いを粉砕するための超高速の死闘へと身を投じていった。




