第34話 亡霊の足音
下層区の廃棄コンテナ群の片隅で、ひどく痩せこけた十代の少年が泥水の中にうずくまっていた。
彼が握りしめているのは、拾い集めたガラクタの通信機だけだ。しかし、木下局長が自身の失態を誤魔化し、逮捕者数の帳尻を合わせるためだけにでっち上げた調書によれば、この怯えきった子供こそが「凶悪なレジスタンスの首謀者」ということになっていた。
国家の命令は絶対である。
戌亥迅は無表情のまま、巨大なヤタガラスの銃口を少年の頭部へと向けた。
だが、引き金に添えた指が、石のように硬直して動かない。
『Error: Target does not meet threat criteria』
『Warning: Internal Contradiction. Combat Output Reduced by 70%』
網膜ディスプレイを埋め尽くす赤いエラーノイズ。無実の子供を殺すことへの「無意識の拒絶」が強固な防壁を食い破り、鉄鋼マシーナリーの人工筋肉に強烈なブレーキをかけていた。
軋む右腕。異常発熱を起こす人工収縮繊維。自己矛盾によるオーバーヒートで戌亥の視界が歪んだ、まさにその瞬間だった。
――キィィンッ!
虚空が陽炎のように揺らぎ、突然現れた銀色の流体金属が、ヤタガラスの重い銃身をいとも容易く上へと弾き飛ばした。
光学迷彩を解除し、暗闇の中から姿を現したCIAの特務サイボーグ、エイダ・クロムウェル。
「……ッ!」
戌亥は即座に右腕のパイルバンカーを叩き込もうと踏み込む。
しかし、遅い。
エイダの驚異的な機動力を差し引いても、戌亥の動きは致命的に鈍りきっていた。「少年を巻き込みたくない」「殺してはならない」というバグがシステム全体に凄まじいデバフをかけ、完璧な殺戮兵器の太刀筋を、錆びついた旧式機械のように重く、鈍いものへと成り下がらせていたのだ。
「驚いたわ。あの狂犬が、ひどく鈍まくらじゃない」
エイダは哀れむような眼差しで、戌亥の重い一撃を流体金属のシールドでふわりといなす。そのまま身を翻し、泥だらけの少年を小脇に抱え上げた。彼女は戌亥を破壊するために来たのではない。狂った国家機構から、この無力な命を逃がすためだけに介入したのだ。
追撃しようと足を踏み出す戌亥だが、システムが相反する命令(標的の破壊と保護)の板挟みになり、両脚の駆動系が完全にフリーズする。
動けない。ただの猟犬であるはずの己の肉体が、自分自身の人間性によって雁字搦めにされている。
「あなた、もう限界ね」
再び光学迷彩を展開し、闇へと溶けゆく直前。エイダは悲痛な自己矛盾に縛られて立ち尽くす戌亥へ、冷たくも悲しい宣告を残した。
「自分のノイズで自滅するわよ、猟犬さん」
夜風と共にエイダと少年の気配が完全に消え去った後も、戌亥は崩れ落ちそうになる巨体を必死に支えながら、その場から一歩も動くことができなかった。
エイダの言葉は、完璧な機械が内側から腐り落ちていく現実を突きつける、残酷な鏡そのものだった。




