第32話 戦友の嘘
雨が打ち付ける新京の裏路地。ネオンの光が水たまりで毒々しく揺れる中、行き止まりのコンクリート壁に一人の男が追い詰められていた。
治安維持局情報部の下級官僚。彼は、第十七ブロックの重砲撃による「真の死者数」——軍と政府が隠蔽した、数千人という無辜の市民の犠牲——を外部へリークしようとした罪で、『鴉』の粛清対象となっていた。
「ち、違う! 私はただ、本当のことを……! あの区画には、まだ生きている人たちが数え切れないほどいたんだッ!」
泥水に這いつくばりながら懇願する男の手には、武器すら握られていない。
その震える頭部に、戌亥迅が『ヤタガラス』の巨大な銃口をピタリと合わせた。
だが、引き金に添えた指が動かない。戌亥の網膜ディスプレイに、前回の民間医師虐殺から続く『Error: Logic Circuit Conflict』の赤い警告文が、再び滝のように流れ落ちる。真実を語る無実の人間を殺すという不条理が、国家の絶対命令に対する物理的なブレーキ(バグ)となって、戌亥の人工筋肉を硬直させていた。
――0.2秒の完全なフリーズ。
猟犬として致命的なその空白を、システムがエラーログとして本部へ送信しようとした、その刹那だった。
「はいはい、言い訳は地獄の閻魔ハンにでも聞いてもらいやー」
横から割り込んだ銀色の影。御堂牡丹だった。
彼女は一切の表情を変えることなく、両手に構えた二丁のマシンピストル『雷火』の引き金を容赦なく引いた。
鼓膜を劈く連射音。ばら撒かれた徹甲弾の雨が、悲鳴を上げる間もなく官僚の身体を蜂の巣に変え、路地裏を真っ赤に染め上げる。
「対象の沈黙確認! いやー、今日もウチらええ仕事したな、戌亥!」
硝煙の中で、牡丹はいつものようにカラカラと笑い、血溜まりを見下ろしながら軽口を叩いた。その顔には、迷いも罪悪感も一切存在しない「明るい狂信者」の笑みが完璧に張り付いている。
数時間後。暗部本部の無機質なメンテナンスルーム。
整備台に並んで腰掛ける二人の間に、冷却ガスの低い稼働音だけが響いていた。
ふと、戌亥は隣で微糖の缶コーヒーを握る牡丹の「右手」を見た。下半身を主に機械化している彼女の上半身は、生身の割合が多い。その白く細い指先が、コーヒーの水面が波立つほどに、小刻みに、しかし激しく震えていた。
無実の者を殺し続ける罪悪感。狂っていく国家への疑念。
牡丹もまた、システムの矛盾にとうの昔に気づいていたのだ。だが彼女は、戌亥以上に必死に「明るい狂犬」のフリをすることで、己の内のノイズ(バグ)を押し殺し、隠蔽し続けていた。先ほど戌亥のフリーズを咄嗟にカバーしたのも、戦友の致命的なエラーを本部から隠すための、彼女なりの必死の防衛だった。
戌亥の視線に気づいた牡丹は、ハッとしたように手を引っ込めると、大げさに肩をすくめてみせた。
「……いやー、最近の『雷火』、反動キツくて手ぇ痺れるわ〜。東雲のおっちゃんにメンテ頼まんとアカンな」
それは、あまりにも不器用で、悲痛な嘘だった。
戌亥はその震えの本当の理由を知っている。牡丹もまた、戌亥が己の嘘を完全に見抜いていることを知っている。
それでも戌亥は深く息を吐き、「……そうか」とだけ短く返し、静かに視線を前に戻した。
互いの胸の内で軋むバグに気づきながらも、決してその境界線には踏み込まない。この狂った国家の中で生き延びるためには、共犯者として優しい嘘をつき続けるしかなかった。冷たい地下室の静寂の中、二匹の猟犬はただ沈黙のまま、互いの隠された傷を庇い合うように並んで座っていた。




