第30話 深まる疑念
灰が、まるで季節外れの雪のように静かに降り注いでいた。
数時間前まで数万の人々が息づいていた中層区第十七ブロックは、軍の重砲撃によって地形ごと物理的に消去され、果てしない焼け野原へと姿を変えていた。
燻る瓦礫の山を踏み越え、一体の半壊したサイボーグが歩み出てくる。
戌亥迅。
その装甲は焼け焦げてひしゃげ、右半身の人工筋肉は断線して火花を散らしている。だが、彼の右腕に握られた首謀者の生体IDチップが、この狂気の市街戦において彼が単独で標的を討ち取った事実を証明していた。
『――ッハハハハ! ようやった! ようやったわ戌亥クン!』
通信機から、木下局長の耳障りな歓喜の声が響き渡る。
『これで軍の連中もデカい顔はできまい! あのエリート気取りの柴田の顔が見物だわ! 砲撃で更地にした挙句、肝心の首は治安維持局に持っていかれたんだからな! お前は最高の猟犬だ! 帰ったら直々に褒美をやろう! ハハハハッ!』
エリートを出し抜いた成り上がりの、醜悪で空虚な権力闘争の勝利宣言。
木下の声には、消滅した数千人の命への哀悼など微塵も存在しない。
通信を切った戌亥は、静まり返った焼け野原の中心でゆっくりと視線を巡らせた。
彼の網膜ディスプレイが、瓦礫の隙間に転がる無数の「炭化した何か」を、冷徹に『市民の死体』としてタグ付けしていく。
権藤鉄幹という完全無欠の機械が立案した、最も効率的な計算式。
その「許容されるコスト」として切り捨てられた者たち。
親が子を抱きかかえたまま黒焦げになった遺体。逃げ惑う姿勢のまま炭化した老人。暴動とは何の関係もない、ただそこに住んでいただけの無力な数千人の一般市民の墓標が、静寂の中でどこまでも広がっていた。
(……これが、国家の防衛か)
その惨状を単眼レンズで捉えた瞬間だった。
『――Fatal Error: Unidentified Logical Paradox Detected.』
『Warning: Ego_Boundary_Collapse.』
突如として、戌亥の視界を真っ赤な警告コードと強烈なノイズが埋め尽くした。
それは0.1秒の動作遅延などという可愛らしいものではない。システムの中枢そのものを揺るがす、致命的なエラー(バグ)。
胸の奥底――かつて人間の心臓があったはずの場所で、論理回路では決して処理できない「何か」が重く、冷たく渦巻いていた。
物理的な痛みではない。それは、自分が命を懸けて守護してきたはずの「国家」という存在のあまりの非道さに対する、明確な違和感だった。
秩序を守るための警察権力のトップ(木下)が醜い保身に狂喜し、国家を防衛するはずの軍神(権藤)が純粋な論理で数千人の無辜の民を虐殺する。
この虚構のユートピアのどこに、己が犬として忠誠を誓うべき「大義」があるというのか。
権藤という「完璧な機械」の狂気を目の当たりにしたことで、皮肉にも、戌亥の中に葬り去られていたはずの「人間としての絶望」が呼び覚まされてしまったのだ。
「…………」
降りしきる灰の中、戌亥は血まみれの義手で、自身の胸の装甲を強く握りしめた。
エラーログが明滅し続ける視界。
もはや彼は、狂気の世界で何も考えずに引き金を引く「ただの猟犬」には戻れない。
鋼鉄の巨体は、誰に知られることもなく、静かに、そして確かに「人間」へと近づきながら、終わりのない灰の雪の中に立ち尽くしていた。




