第29話 犬の意地
「戌亥クン! ええか、絶対に負けられんのだわ!」
戌亥の聴覚センサーに、鼓膜を劈くような木下局長の絶叫が響き渡った。
通信の向こう側で、木下は完全に正気を失い、尾張訛りを全開にして喚き散らしている。
「あのエリート気取りの軍神サマが、第十七ブロックを丸ごと砲撃で消し飛ばす気だわ! そうなったら、反乱を鎮圧したのは軍の手柄になっちまう! わしら治安維持局の面子丸潰れだがね! 砲撃が始まる前に、何としてもテロの首謀者の首を獲ってちょーよ! これは至上命令だわ!」
軍の重砲撃開始まで、残り四分。
常識的に考えれば、数千人の暴徒と無数のトラップが待ち受ける市街地へ単騎で突入し、首謀者を仕留めて生還することなど不可能である。権藤鉄幹であれば「成功率ゼロの非論理的な自殺行為」として即座に棄却する命令だ。
しかし、戌亥迅の辞書に「不可能」や「撤退」という文字はない。
「……了解した」
戌亥は短く応答し、ヤタガラスのシリンダーを弾いて徹甲弾の装填を確認する。
次の瞬間、彼は包囲網のバリケードを強引に蹴り破り、単騎でレジスタンスの巣窟である第十七ブロックへと突入した。
彼がコンクリートの廃墟に足を踏み入れた直後、夜空が真昼のように閃光で染まった。
権藤の予告通り、軍の重砲撃が開始されたのだ。
轟音と共に無数の火球が降り注ぎ、大地が激しく隆起する。数千人の悲鳴が爆音にかき消され、堅牢なビル群がまるで砂の城のように崩れ去っていく。すべてを等しくすり潰す、無慈悲な「面」の暴力。
その地獄の猛火の中を、巨大な銀色の影が疾走していた。
「ひぃぃッ! 化け物だ! 撃て、撃てェ!」
砲火から逃げ惑っていたレジスタンスたちが戌亥に気づき、アサルトライフルの一斉射撃を浴びせる。
だが、戌亥は回避すらしない。己のチタン合金の装甲で弾雨を正面から受け止め、火花を散らしながら一直線に敵陣へと突っ込む。
彼の進む道に迂回という概念はない。
立ちはだかる分厚い防爆扉があれば、零式・重圧粉砕腕を叩き込み、轟音と共に鋼鉄ごと粉砕して直進する。
頭上から崩れ落ちてくる数十トンの瓦礫の雨も、巨大な義腕で強引に弾き飛ばし、装甲を削りながら無理やり突破していく。
権藤の計算式が「地形ごと消去する面」であるならば、戌亥のそれは「標的のみを一直線に穿つ点」の暴力だった。
人工筋肉が限界を超えて軋みを上げ、合成血液が沸騰して青白い蒸気を噴き出す。全身を黒焦げにし、肉体を極限まで削りながら、猟犬はただひたすらに標的への最短距離を突き進む。
「ば、馬鹿な……この砲撃の中を、たった一人で抜けてきたっていうのか……ッ!?」
ブロックの中心核である地下シェルター。
震え上がるレジスタンスの首謀者の前に、分厚い隔壁を蹴り破って、全身から煙を上げる鋼鉄の死神が姿を現した。
戌亥の右半身は砲撃の余波でひしゃげ、視覚センサーの片方は完全にひび割れている。
それでも、残された赤い単眼は、一切の感情を交えることなく首謀者の脳天を正確に捉えていた。
「ま、待て! 交渉を――」
首謀者が懇願の声を上げるより早く、戌亥はヤタガラスの銃口を突き出し、無造作に引き金を引いた。
轟音。
20ミリ徹甲弾が首謀者の頭部をスイカのように吹き飛ばし、壁を赤黒く染め上げる。
「任務完了。標的の沈黙を確認」
頭上で絶え間なく続く砲撃の振動に揺れながら、戌亥は抑揚のない声でシステムに報告した。
論理と計算の軍神が面ですべてを焼き払う中、ただ執念と意地だけで標的を食い破った野良犬。その全身傷だらけの姿は、狂った国家の中で誰よりも泥臭く、そして誰よりも純粋な刃であった。




