第3話 泥底の闇市
新京の空は、物理的に分断されている。
上層と中層を覆う環境制御ドームのさらに下、巨大なコンクリートの基盤を支える支柱の森の底に、第十一外周区の最深部である下層区画が存在する。
そこは、太陽の光が永遠に届かない泥底の世界だった。
無数に張り巡らされた工業用パイプからは絶えず汚水が滴り落ち、剥き出しのネオン管が、有害物質を含んだ霧を毒々しい極彩色に染め上げている。
戌亥迅は、黒いハーフコートの襟を立て、ひしめき合うスラムの路地を歩いていた。
道端には、悪臭を放つ泥水に半ば浸かるようにして、うずくまる人々がいる。彼らは皆、生気を失った濁った目をしていた。
広場に出ると、長い行列ができていた。国家治安維持局のマークが印字された配給トラックの前に、何百人もの下層市民が群がっている。
配給されているのは、工業用の廃油と藻類を再合成して作られた、灰色をしたペースト状の合成食料だ。味も食感も泥と大差ない代物だが、彼らが餓死を免れるための唯一の手段でもあった。
ひどく咳き込む子供を抱えた母親が、配給官にわずかばかりの増量を懇願しているが、警備の男に警棒で無慈悲に突き飛ばされていた。
中層居住区の美しい桜と、満ち足りた市民たちの姿とは、同じ国家の風景とは到底思えない。
だが、戌亥の機械脳は一切の感情を動かさなかった。彼の網膜に映るのは、悲惨な生活を送る人間ではなく、単なる『労働リソース』と『潜在的犯罪係数』の数値データでしかない。
今日の任務は、思想犯の摘発ではない。
数日前の廃棄造船所でのテロ事件で、武装グループが使用していた『違法インプラント』の供給源を絶つことだ。
旧中国軍閥からの横流し品である軍用インプラントが、この新京の最底辺にまで入り込んでいる。これを仕切り、スラムの裏社会を牛耳っている元凶を物理的に排除する命令が下っていた。
戌亥は、スラムのさらに奥深く、廃棄された地下水路を利用した非合法のブラックマーケットへと足を踏み入れた。
足場が悪く、湿気と機械油の臭いが充満する空間に、バラック建ての露店が隙間なく並んでいる。違法な薬物、盗品の生体部品、出所不明の武器。ここでは、ICチップの監視網を逃れた闇の通貨だけが幅を利かせている。
戌亥は立ち止まり、静かに目を閉じた。
彼の意識が、物理世界から電子の海へとダイブする。鉄鋼マシーナリーの機能は、単純な破壊力だけではない。頭蓋に内蔵された軍用規格の通信モジュールが、闇市に飛び交う違法なローカルネットワークへ強制接続を仕掛けた。
暗号化された無数のデータ通信が、網膜の裏側で情報の滝となって流れ落ちる。
戌亥は安物のファイアウォールを紙を破るように突破し、闇市の帳簿データ、監視カメラの映像、そして密売人たちの通信記録を瞬時に解析していった。
「――ビンゴだ」
造船所のテロリストたちにインプラントを卸した密売ルートの痕跡を見つけ出す。
戌亥は目を開け、迷いのない足取りでブラックマーケットの一角にある薄汚れた酒場へと向かった。
裏口の路地に、情報の起点となった男がいた。インプラントの密売を仕切る情報屋だ。
男は戌亥のただならぬ気配に気づき、懐からレーザーガンを抜こうとした。
だが、銃口が上を向くよりも早く、戌亥の姿が掻き消えた。
ドンッ、という鈍い衝撃音。
気付けば、男は路地のレンガ壁に喉元を押さえつけられ、足が宙に浮いていた。鋼鉄の指が、男の頸動脈を寸分違わぬ圧力で締め上げている。
「が、あッ……貴様、治安維持局の……ッ!」
「お前の通信記録と口座のトランザクションはすべて抜いた。旧中国軍閥の兵器を密輸しているギャングの元締めはどこにいる。十秒以内に答えろ」
戌亥の冷酷な瞳に見下ろされ、男は恐怖に顔を歪めた。
彼も裏社会で生きる人間だ。目の前の男が、人間ではなく血も涙もない機械の殺し屋『鴉』であることは本能で理解できた。沈黙すれば、一秒後には自分の首の骨がへし折られていると確信する。
「い、言う! 言うから殺さないでくれ! 元締めは『牙狼』だ! 旧第七プラントの廃工場をアジトにしてる! 俺はただ運び屋をやっただけで――」
戌亥は男の言葉の途中で手を放した。
地面に崩れ落ち、咳き込む男の首裏のICチップに、戌亥の指先から極小のスタン・パルスが撃ち込まれる。男は白目を剥き、一切の音を立てずに気絶した。
「東雲。本星の座標を特定した。これより制圧に向かう」
戌亥は通信を繋ぎながら、闇市の泥濘を蹴ってアジトへと向かった。
旧第七プラントは、スラムの最下層に位置する巨大な要塞だった。
武装したギャングの構成員が見張りに立ち、壁面には違法に改造された自動迎撃タレットが設置されている。
だが、それらの防衛設備は戌亥にとって存在しないも同然だった。
戌亥は歩みを止めず、プラントのセキュリティネットワークに侵入する。
彼の網膜上でハッキングのプログレスバーが瞬く間に満タンになり、迎撃タレットの電源が次々と落ちていく。見張りの男たちが持つ通信機のノイズキャンセラーを暴走させ、一時的に聴覚と意識を刈り取る。
一切の銃声を鳴らすことなく、電子的な不可視の暴力だけで、戌亥は堂々と正面ゲートを突破した。
プラントの中心部、巨大な精錬炉が冷え切ったメインホール。
そこでようやく、ギャングたちは侵入者の存在に気がついた。
「なっ、何者だてめえ! どうやってここに入り込みやがった!」
数十人の武装した男たちが、いっせいに戌亥を取り囲んだ。
彼らの手には、アサルトライフルや高出力のレーザーガン、そして違法なメカニカルアームが握られている。
ホールの奥から、顔に醜い傷痕のある巨漢の男が現れた。ギャングのリーダーだ。
彼は戌亥の黒いコートを見るなり、忌々しそうに舌打ちをした。
「治安維持局の猟犬か。嗅ぎ回ってるって噂は聞いていたが、たった一人で乗り込んでくるとは舐められたもんだ」
「お前たちに投降は勧告しない。一分以内に全員処分する」
「ほざけ! ハチの巣にしてスクラップに変えてやる!」
リーダーの号令と共に、数十の銃口が戌亥に向けられた。
一触即発。
だが、戌亥は微塵も動揺を見せず、コートの裏から大口径対装甲拳銃『ヤタガラス』をゆっくりと引き抜いた。
その動作はあまりにも静かで、しかし、空間の温度を一気に零下まで引き下げるような、常軌を逸した死の気配を孕んでいた。
戌亥は銃口を床に向けたまま、感情のない無機質な声で語り始めた。
「ID:442−1098、劉。ID:885−3321、坂本。ID:219−0045、陳」
ギャングたちは息を呑んだ。
今、戌亥が口にしたのは、ICチップを偽造して捨てたはずの彼らの『本名』と『旧認識番号』だった。
「お前たちのメインサーバーはすでに制圧した。兵器の密輸ルート、資金の隠し場所、裏口で繋がっていた治安維持局の汚職官僚の名前まで、すべてこちらのデータベースに同期済みだ」
戌亥の言葉に、巨漢のリーダーの顔から血の気が引いていく。
目の前にいるのは、ただの暴力装置ではない。自分たちの存在そのものを、データの世界から物理世界に至るまで完全に掌握し、弄ぶ怪物なのだ。
戌亥の放つ『静かなる威圧感』が、毒ガスのようにホールを満たしていく。
圧倒的な情報戦能力と、一切の隙を見せない鋼鉄の肉体。向けられた殺気だけで、手足が凍りついたように動かなくなる。ギャングたちの何人かは、恐怖のあまり武器を取り落としていた。
「一つだけ、評価してやる」
戌亥はヤタガラスの撃鉄を、カチリと親指で起こした。
「お前たちはただ兵器を密輸していただけではないようだな。サーバー内の『決起計画書』を見た」
リーダーの顔が、今度は驚愕に歪んだ。
戌亥の網膜には、彼らのサーバーから引きずり出した恐るべきデータが表示されていた。
配給への不満を抱えるスラムの市民たちを煽動し、密輸した武器をバラ撒いて、数千人規模の同時多発的な『大暴動』を起こす計画。
「スラムの市民を弾除けにして、中層居住区へなだれ込む算段か。無駄なことだ。お前たちの野望は、今この瞬間に完全に摘み取られた」
「くそっ、撃て! 撃ち殺せえええっ!!」
リーダーが恐怖を振り払うように絶叫した。
数十の銃口から、一斉に火が噴かれる。
だが、その時にはすでに、戌亥迅の瞳は冷徹な殺戮モードへと切り替わっていた。
静寂は破られ、圧倒的な暴力の嵐が泥底の闇市に吹き荒れる。
国家の犬にとって、市民の怒りも、ギャングの野望も関係ない。ただ、立ちはだかる敵を物理的に粉砕するのみ。
そして、この廃工場での血の惨劇が、数時間後に勃発するスラム全体の『絶望的な暴動』への、ほんの序曲に過ぎないことを、戌亥はシステムを通じてすでに理解していた。




